【九州の戦国武将】『大友宗麟』聖と性に溺れた俺様大名!!ドン・フランシスコの欲望
九州で活躍した戦国武将をササっと軽く紹介するこのコーナー、ふか~いところは自身で調べる事をおススメします。本日登場するのはドン・フランシスコ、大友宗麟でございます。もうね、人の上に立っちゃいけないという手本のような人、支える部下たちはは大変だったろうね。ベッキさんとか、タカハシさんとか、ね。

画像:戦国BASARA
欲しい者は奪い、気に入らなきゃぶっ壊す。非道の伝道師、恐怖のキリシタン大名。
あ、それ皆がやったことだから
異母弟を愛する父。そのため廃嫡されそうになっちゃって、僕を応援してくれる人も殺されて、かなりヤバかったんだよ。そんな折、異母弟が寝込みを襲われてブッ殺されたんだ。暗殺ね、暗殺。でもってその母親も殺されて、なんと父が重傷を負って、療養中に何故か死んじゃった。
ぇ!? お前がやったんじゃないかって、いやいやいやいや、ないないないない、僕を心配してくれた皆がやってくれたことさ、教唆!? 証拠あんの?
「いい加減なこと言ってたら、お前の嫁さん寝取るぞゴルア!!」
ということで、二階崩れの変と言われる血なまぐさい家督争いを制して戦国の世に登場した戦国大名。それが大友義鎮(おおとも よししげ)後の宗麟(そうりん)であり、ドン・フランシスコなのだ。
九州の王ともいわれた名門中の名門。
大友氏というのは九州の中でも名門中の名門。大友氏の発祥は相模国(神奈川あたり)大友郷とされていて、なんとあの源頼朝から豊後(大分あたり)の守護に任じられて三代目から九州に移り住む。その後、島津、少弐と共に九州の有力守護大名として君臨し、元寇で活躍して博多や怡土(福岡県糸島市)あたりに所領を貰い、足利尊氏からは豊後だけでなく筑後の守護にも任じられ、戦国時代には九州最大の守護大名となりました。
その当主がこの人。変態クリスチャン、大友宗麟。とんでもないエロおやじで、なおかつ狂信的なクリスチャン。おかげで家臣が叛く叛く、反乱の連続。自身のせいで家が傾いた……なんて反省したことないんだろうね、この人。
NTR(寝取り)大好きの熟女マニア
- 京都に政情視察と称し美女を物色し、好みの美女を略奪。
- 自分に叛意を抱いた服部右京亮を成敗し、その妻を寝取り自分の妻にする。が、キリスト教に理解がないので離縁。その母を側室にする。
- 重臣の一萬田親実が合戦に出向いている間にその妻を寝取る。親実は武士の恥と切腹して果てた。さらに親実の親族が仇討ちに立ち上がり、その鎮圧に2年もかかった。うわぁ……下衆だ。
- 他にも金に飽かせて女を集め、酒池肉林したのであった。
ということで、とにかく年増女、特に人妻好きだったらしい。堪え性のない殿様の暴れん棒、けっこう呆れられていたようです。
とにかく贅沢三昧やってたそうで、財政は常に火の車。なければ奪え、おかげで常に領土を広げる必要がありました。
異教は滅すべし!! 破壊の化身、ドン・フランシスコとジュニア
兎に角この人、行く先々で寺も神社もぶっ壊す。拙者が佐賀で龍造寺所縁の地を巡ってると、ときどき大友宗麟に破壊された寺社と出会います。大友宗麟による肥前侵攻は1570年なのでドン・フランシスコになる前の事ですが、キリスト教に改宗する前から派手に寺社を壊していたんですね。
例えば、吉野ケ里遺跡の近くにある東妙寺、ここは南北朝時代に九州で再起を図った足利尊氏も立ち寄った由緒ある寺。宗麟に焼かれました。肥前一宮、川上社も宗麟に焼かれ、行基が開いたとされる実相院も宗麟に焼かれ……という具合なので、他にも数えきれないくらい寺社を焼いてますよね、きっと。
キリスト教改宗前の寺社破壊は、重臣への恩賞地が足りず寺社領を奪うためだったり、贅沢のし過ぎで領地を広げなきゃいけなかったり、というのが理由だったみたい。
しかし改宗後は明らかに異教の寺院だから壊してますよね、それ以前から焼いたり壊したりしてたので抵抗も少なかったんでしょう。ただ、その事が家臣たちとの間に埋められない溝を生みます。息子もキリシタンとして純粋培養されちゃったみたいで……
バテレンに魂と領民を売り渡し、日本の宗教文化に対する破壊の限りを尽くした暴君。それが大友宗麟なのです。
信長の比叡山焼き討ちなんて生ぬるい
父祖の遺産を生かしきれず……
もちろん家臣はたまったもんじゃありません、だから反乱が止まらない。父祖から引き継いだ大友の遺産、元が大きいからそれなりにやってれば九州の有力大名として活躍できるのは当たり前。しかし、それらをガタガタにしてしまったのが大友宗麟。
そして運命のバトル・オブ・ミミガワ。島津による九州統一戦に巻き込まれ、本気で戦わざるを得なくなった大友宗麟。島津に追われた日向の大名伊藤氏を保護し、旧領回復とばかりに日向へ侵攻。もちろん徹底的に寺社を破壊しまくっています。
「大将、バテレンだからってやりすぎでしょうよ……」てくらいの容赦のなさ。当時の人たちは今と違って信心深いですからね、おかげで士気はだだ下がり。島津義久、家久が率いる戦国九州最強の戦闘民族、サツマの民2万人に対して倍の4万で挑むも部隊は壊滅、重臣の多くが物理的に首になりました。
その時、総大将の宗麟はどこに居たかというと、キリスト教の宣教師たちと後方で毎日オルガン伴奏のミサなんかをやってたそうです。
この合戦の最大の敗因は、大友側が決戦するのか和睦するのかといった、全体の方針が決まっていなかったことだと思うんですよね。戦闘を避けるべきという家臣と決戦を主張する家臣が対立しているあいだに、血の気の多いヤツが先陣をきっちまったので他の部隊もなし崩し的に参戦。
全体の方針を決めるのが大将の仕事、それを放棄したのですから負けるべくして負けたんです。
序盤は兵力差に物をいわせて押しまくっていたものの、戦線が伸び切ったところで伏兵による包囲攻撃を受け潰走。その後は執拗な追撃を受け侵攻軍は壊滅、致命的な敗北を喫しました。
島津の釣り野伏にまんまと嵌められたんですね。
最後は秀吉に助けてと縋りつき、居城まで攻め込まれ滅亡寸前のところを秀吉の弟、豊臣秀長率いる軍勢に救出されます。その後はもはややる気がなくなったのか、秀吉から日向を与えられるけど宗麟はイラネと拒否。その後、隠居先で没しました。
バテレン追放令の約一か月前のこと。
豊後は息子、義統が継ぎますがヘタをうって改易。徳川家康預かりとなり、江戸時代は旗本として生き延びました。
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