【九州の戦国武将】『甲斐宗運』肥後の常勝坊主!狂信的な忠義の殺戮者

九州で活躍した戦国武将をササっと軽く紹介するこのコーナー、ふか~いところは自身で調べる事をおススメします。ということで、今回は肥後熊本、阿蘇氏の忠臣にして生涯不敗の猛将甲斐宗運です。

主家の為ならミナゴロシ、阿蘇に逆らう者は我が子でも容赦なし。狂信的な忠誠心で、一族滅亡の危機まで追い込んだ殺戮坊主。

一度も合戦に負けなかった武将としてしられる甲斐宗運。生まれは肥後熊本、阿蘇神社の大宮司阿蘇氏の重臣で家老の家柄。生年は不詳。おそらく1515年ではないかと言われています。

元服時の名は甲斐親直(かい ちかなお)、後に剃髪して甲斐宗運(かい そううん)と名乗りました。

阿蘇の常勝坊主

この人はなんと言っても生涯不敗、合戦でただの一度も負けなかった常勝坊主としてしられています。とにかく阿蘇家への忠義に厚く、お家の為なら何でもあり。裏切りの兆候があれば、身内に対しても躊躇なく刃を向けるチョット怖いくらいの忠臣でした

初陣では大友氏に従い出陣、同じ肥後の国人菊池氏の養子となった大友義鑑(宗麟の父)の弟、菊池武包を討ちました。この勝利を皮切りに、小領主の家臣でありながら生涯六十余度の合戦で不敗と称えられる名将なのです。

混戦状態の九州でこの戦績はもはや奇跡。

龍造寺に従属した筑後の国人連合軍に完全包囲され、皆にボコられそうになったときも、逆にボッコボコにして勝利。戦えば勝つ、それがカイ、甲斐宗運。常勝坊主の名はダテじゃない。

成敗!成敗!非情な天誅坊主

甲斐宗運はとにかく阿蘇家命、裏切り者は許さない。裏切れば成敗!! とにかく粛正、苛烈という言葉も生ぬるいくらいの天誅を加えた事で有名です。

最初の粛正は同じ阿蘇に仕える御船城主の御船房行、彼が島津貴久に内通したことを知ると、すかさず攻めて房行を自決に追い込みます。これで裏切り者には死を!! に目覚めたのか、この後、次々と疑わしきは死ねとばかりに天誅を加えまくるのです。

まず餌食になったのは隈庄守昌(くまのしょう もりまさ)という娘婿。この人がなんと宗運が持つ茶臼剣(ちゃうすけん)と言う脇差を欲しがったんですね。で、あろうこととか、宗運の娘である自分の妻に盗み出させてしまった。もちろんバレますよ、大切な脇差を盗まれたんだから。そこで守昌さん、宗運に怒られるのが怖くて島津に内通しようとするんです。

ハイ、天誅

裏切り者は死ね、一族ミナゴロシです。

※茶臼剣は後に熊本城に入った細川氏に伝わり、現在は島田美術館が所蔵しています。

次は息子・親英の舅、ようするに嫁の実家ね。黒仁田親定というんですけど、ちょっと外交に多様性を持たせちゃったみたいで。

おまえさ、阿蘇って殿様が居ながら伊東さんとこと仲良くしようとしてるでしょ……

ハイ、天誅。

ぜったい恨みません逆らいませんゴメンナサイと誓紙を差し出した嫁以外をミナゴロシ

さらに伊藤氏に通じようとした宗運の次男・親正、三男・宣成、四男・直武を次々と誅殺。

ハイ、天誅。

阿蘇家のためなら我が子も殺し、阿蘇に天誅の嵐を巻き起こす。けどね、私、こう見えてもボウズなんですw

そう、彼こそがナチュラル・ボウズ・キラー、ソウウン・カイなのです。

「テメー!!ちょっと忠義の為とはいえやり過ぎなんだよ」

阿蘇の地でミナゴロシを連発する坊主を非難し、排斥しようとした勇気ある肥後もっこす(熊本のがんこもの)が現れます。それは、嫡男の親英でした。

ハイ、天誅……と、いつも通りミナゴロシにしようとした宗運。しかし、家臣たちに「坊主やりすぎだろ」と諫められて断念。

九州でいえば龍造寺隆信なんかも残酷だのなんだのと言われますが、さすがに家族を手に掛ける事はなかったんですよね。けど裏切り者に対しては苛烈な対応をしていたので、九州という修羅の国では裏切り者には死を!! が、一般的なのかもしれない。

大勢力に囲まれた小領主の悲哀

いろいろとダーティーなイメージを持たれる甲斐宗運なんですけど、その根底にあるのは阿蘇家への忠誠心。昨日の友は今日の敵なんてのが当たり前の時代に在って、これほど忠誠心の厚い男は珍しいのです。世が世なら、てか江戸時代ならば、武士の鑑ともいえる忠義の士なんです。

宗運が仕える阿蘇氏というのは肥後の国人なんです、阿蘇神社の大宮司ですから。で、肥後という国は強い大名が居なかった地なんですよ、なので常に大勢力に従いながら家を保つしかなかったんです。九州と言えば大友、島津、龍造寺の九州三国志。

そんななかで、阿蘇氏は大友氏に従い続けます、途中まで……いや、あの耳側で大友が大敗したあとも、我が阿蘇家は大友に忠誠を誓うべし!! と家中で喧々諤々の大騒ぎをやって、大友に忠誠を誓うのです。

まあ、後に龍造寺へ鞍替えするんですけどね。そんな時に、誼を通じたマブダチの相良義陽が島津の圧力に耐えきれず、島津に降ります。

「あいつら調子乗りすぎとるやろ、せやからな、がーんとイワしたろと思うとんねん。とりあえずワシが味方のフリして島津連れて来るさかいにな、肥後で一緒にジバキまわしたろうや、な」

そんな誘いを受けるのですが。

「私は信じるという感情を母親の腹に置いてきた」とばかりに、奇襲してマブダチをぶっ殺します。

ハイ、天誅。

この話には美談もあるようですが、ヒールは最後までヒールで居てほしいですもんね。

そんなこんなで、なんとか踏ん張ってた甲斐宗運なのですが、さすがに九州の雄島津の圧力に抗しきれず阿蘇氏と島津は和睦することになります。もちろん島津が圧倒的に有利な状況、いろいろと条件が付けられました。が、全無視、完全無視するんですこの坊主。さらに阿蘇の旧領を返せとか、そもそも条件が悪すぎるとかイチャモンつけてゴネたおす。

「勘弁してくれよ、こいつヤカラやんけ」と島津を呆れさせ、ややこしい人と拘わるなとばかりに、宗運が居るうちは手が出せんと言わしめ、結果として阿蘇家を守り抜いたのです。

さすが忠臣、すげえよ常勝坊主、もはや常軌を逸してます。

そんな甲斐宗運、良くも悪くも強烈すぎた武将で坊主。その最後は病死とされていますが、実家をミナゴロシにされた息子の嫁の娘、つまり孫に毒殺されたとも伝わっています。

享年75歳。

阿蘇家のその後

甲斐宗運は生前に「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、矢部(阿蘇氏の本拠地・岩尾城)に篭って守勢に徹し、天下統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と遺言していました。

しかし、宗運の後を継ぎ筆頭家老となっていた甲斐親英は、その言いつけを守らず島津に対し攻勢に出ます。相手は強大な島津、戦国最強ともいわれる戦闘民族サツマの民。あの坊主のいない阿蘇など恐れるに足らずとばかりに逆襲され、甲斐親英は早々に降伏。2歳であった阿蘇家当主、阿蘇惟光も共に降伏。阿蘇神社の大宮司、阿蘇家はここに滅亡します。

しかし、豊臣秀吉による九州征伐に阿蘇惟光が協力していたようで、旧領の御船を回復するのですが、肥後の領主となった佐々成正と対立し肥後国人一揆をおこしてしまいます。甲斐親英は一揆の大将として三万五千の兵で隈本城を攻撃し、見事に負けます。

甲斐親英は健軍神社に逃れますが、佐々成正の軍勢に発見され六ヶ所村の地蔵堂で自害しました。阿蘇家当主であった2歳の阿蘇惟光は、後に加藤清正に預けられますが再び一揆が起きた際に関係を疑われ斬首されました。

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