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「田手畷の戦い」肥前(佐賀)神崎郡田手村『少弐 vs 大内』戦国九州の古戦場巡り

戦闘の始まり

1530年8月15日、北部九州の最大勢力であった少弐氏が本州山口を本拠とする大内氏の侵攻を受け、筑前大宰府を追われ一時は滅亡寸前まで追い込まれる。しかし1528年に少弐資元が幕府の協力を得て大内氏と和睦、肥前国人衆の支持を受け勢力を回復すると、警戒した大内氏が少弐にとどめを刺すべく再侵攻。

圧倒的な物量に押される少弐資元は大内軍を率いる杉興運に押されまくり、ついには一族にも背かれ、本拠地である肥前神崎郡まで攻め込まれる。少弐の劣勢を見た肥前国人衆も多くが大内方に回り、籠城も不利とみた少弐資元、籠れぬなら打って出ればいいとばかりに迎撃を命じ、龍造寺家兼、小田、執行といった佐賀周辺の国人に出陣を命じる。このとき、総大将である少弐資元ははるか後方、多久の梶峯城に居た。

合戦の結果

開戦当初から、一説には1万ともいわれる大内軍の前に劣勢に立たされる少弐勢。多勢に無勢、このまま押し切られるかと思われたとき、龍造寺に従う鍋島、石井率いる伏兵による奇襲攻撃が成功。不思議ないで立ちをした集団が突如切り込み、大内方の先手武将の筑紫尚門、朝日頼実を打ち取る大戦果。突如あらわれた敵にいきなり将を討たれた先人は大混乱、そこへ龍造寺を始めとする少弐本軍が突撃し勝負あり。結果として名のある将を含め八百ともいわれる首級をあげて大勝する。

龍造寺の名は肥前のみならず、九州北部、そして山口にまで轟くことになる。ちなみに、この際に活躍した鍋島清房に嫡男の娘を嫁がせて一門扱いとし、佐嘉本庄に八十町を与えた。この鍋島が後の佐賀鍋島藩へと繋がっていく。

戦場の様子

写真は国土地理院より

田手畷の戦いがどこで発生したのか、正確な位置は分かっていないのであくまで僕の推測なのですが、この近辺で一番の高地といえば現在吉野ケ里遺跡がある場所なんですよね。

で、ここは龍造寺隆信が少弐攻めを行った時にも、少弐方が籠った吉野ケ里の日吉城があった場所でもありますし、また、明治初期における佐賀の乱でも東方向から攻めて来る官軍を防ぐ最終防衛ラインとして最大の激戦地となった場所でもあります。

また、古代官道もここを通り、切通しを設け防衛拠点としての役割を持っていたとも言われます。

さらに言うと、佐賀平野ってクリークと言われる水路だらけ、江湖とよばれる川なんだか池なんだよく分からない巨大水たまりが各所に点在し、満潮時には水があふれかえって水浸しみたいな、そんな地域だったんですよね。

なのでシッカリとした足場があって、まとまった兵力を展開できる高所って貴重だし場所も限られていたと思うんですよ。

なので、恐らくこのときも吉野ケ里遺跡がある高地を利用して防衛ラインを構築したのではないかと推測するのです。なんたって、田手という地名が残っている場所ですしね。

田手畷の戦い、古戦場を歩く

田手川

はい、まずは田手川、吉野ケ里遺跡がある吉野ケ里丘陵の東側を流れる川。この川は吉野ケ里遺跡がまだ現役だった頃もあったとされ、水運に使われていたとのこと。

田手川に面し、吉野ケ里丘陵の南端に位置する田手村。鍵状に曲がる道や細い路地など、江戸時代の町割りと思われる古い町並みが今も残る、のどかでいい場所なのです。

田手川沿いに建つ古刹、東妙寺の境内。田手畷の戦いに関するものはなかったが、大友宗麟による肥前侵攻の際には焼き払われてしまったとか。鎌倉時代、13世紀に建立された寺とのことなので、田手畷の戦いも見ていたのではないでしょうか。

鉄道の線路が敷地内を走る、不思議なお寺。

吉野ケ里遺跡公園になっている、吉野ケ里丘陵から東方向、大内軍が侵攻してきた方角を撮影。

見渡す限りの平地、すぐ目の前、数十メートル先に田手川がある。こんな場所を放っておくとは思えない。実際、この丘は何度も戦場となっている場所。

逆に、東から西、吉野ケ里丘陵を正面に見るとこんな感じ。目のまえになだらかな丘陵地帯、南北に長く前方に立ちふさがっているように見えますね。

日吉城跡

さらに吉野ケ里遺跡があるこの丘陵には、日吉城という城が築かれていました。この城は龍造寺隆信による少弐攻め、特に少弐氏の居城である勢福寺城攻めの時に何度か登場する城。少弐方の武将、江上武種と神代勝利が立て籠ることになった城で、隆信に隠居させられた江上武種の隠居城になりました。

本丸だったと思われる社殿が建つ境内、まわりは高く盛り上がっていて土塁のように見えるのだけど…

ただ、周りはもはや吉野ケ里遺跡の公園として整備されているので、どこまでが城域なのかはっきりしません。

吉野ケ里遺跡の案内によると戦国時代には北墳丘墓あたりに砦があったとの事なので、この丘陵の北部一帯を城として整備していたのかもしれません。

ということで、まあ、こんな防衛に適した場所があって、しかも城があって、それを川近辺で戦っておきながら放っておくとは思えないんですよね。あくまで推測だけど……

なので、田手畷の戦いは、この吉野ケ里遺跡がある丘陵地帯で起こった合戦。こここそが古戦場だと、認定させていただきます。

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