「恵日山 寳琳院」若き日の龍造寺隆信が暮らした寺、龍造寺氏の祈祷寺

九州三国志の華と言ってもいい、九州唯一の戦国大名である龍造寺隆信。九州三国志といえば薩摩島津、豊後大友、そして肥前龍造寺なんですけども、大友と島津は共に鎌倉以来の由緒ある家柄の守護大名であるのに対して、龍造寺だけが国人領主が下克上で成り上がった大名なのですよ。

だ・か・ら、唯一の戦国大名という事にしたのです。他は守護大名ですからね。

恵日山龍造寺宝琳院

長く龍造寺一族が住職を務めたことで知られる恵日山宝琳院、開山はあまりにも古く定かではないそうだけど、寺の伝えでは西暦711年というから奈良時代、平安京よりも古い平城京の時代ですよ。

一度は衰退するものの、永安時代末期に龍造寺二代当主季喜の実兄、覚阿禅師によって再興されたとあります。それ以来、龍造寺家の祈祷寺として因縁浅からぬ関係となり、15世紀頃から江戸時代初期まで龍造寺の一族が住職を務めたお寺でした。

鍋島にポイッてされちゃうんだけどね。

佐賀の町は昔ながらの街並みを色濃く残していて、鍵状に直角カーブが続く道とか行き止まりとか、とにかく防衛に重きをおく城下町の町割りが今も残っているのです。

宝琳院へと続く道もこの通り、直角カーブ。

寺の入り口には山門はなく石柱が建つのみ、この奥がけっこう開けていて、本堂などがあるんです。龍造寺氏がこの地を治めていた頃は格式の高い、大きなお寺だったのでしょうけどね。

この宝琳院、田舎にあるちょっと大きなお寺という風情なのですが、なんといっても龍造寺隆信が7歳から17歳まで出家して修行していた事で有名なお寺。隆信は武将ではなく、仏門に入り円月と称してお坊さんを真面目にやってたんです、このお寺で。

しかし肥前での権力争いの中で少弐氏によって粛清され、龍造寺氏は多くの男子を失い跡取りにも困るような状況に追い込まれます。混乱の中で円月は龍造寺家兼と共に筑後へ逃れそこで還俗、龍造寺の宗家を相続して龍造寺隆信になり、少弐氏を滅ぼして一族の仇討を成し遂げるのです。

その龍造寺も鍋島に家を乗っ取られ、その後は最低限の援助しか受けられなかった宝琳院。時代と共に衰退していき、明治7年には失われた本堂を再建する力もなく一度廃寺となったのだとか。現在の本堂は昭和8年に再建されたもの、他の建物もそれ以降に建てられ現在の姿になったのは昭和12年のこと。

 

寺のなかに往時を偲ばせるようなものは殆ど残っておらず、唯一、龍造寺氏との繋がりを伺わせるのは屋根で黄金色に輝く十二日足紋。日輪を模した龍造寺氏の家紋です。

ただそれでも、時代は違えど龍造寺隆信と同じ場所に立ち同じ空気を吸ってるわけですよ。それはそれで、遥か時空を超えて出会いを果たしたみたいな不思議な感覚なのです。いわゆる聖地巡礼というやつでしょうか。

こちらは歴代住職の墓所でしょうかね。

ドーンと目を引く石塔、仏塔でしょうか。

境内には執行氏の霊廟がありました。

戦国期の執行氏といえば徹底して龍造寺と敵対した武将、執行種兼が有名ですね。少弐氏に仕えた武将、猛将として知られ、少弐滅亡後は江上氏の家老として龍造寺隆信と敵対します。やがて江上氏も龍造寺隆信の軍門に下り、江上氏を龍造寺隆信の子である家種が継ぐと執行氏はその家種の家臣となります。

城原衆といわれる佐賀神崎郡の武士団を率い、龍造寺軍の精鋭部隊として各地で活躍。最後は沖田畷の戦いで龍造寺隆信と共に一族と城原衆の多くが討ち死にしました。

龍造寺あっての鍋島、佐賀なんだよね

そもそも鍋島氏なんてのは、龍造寺が無ければ世に出る事もなかったくらい小さな地方国人だったんですよ。それを取り立てたのが龍造寺で、九州最大ともいえる版図を築いた龍造寺隆信、鍋島氏はその一門であり腹心として共に出世していくわけです。でもって豊臣秀吉の九州仕置き以降、佐賀鍋島藩の領土の殆どは龍造寺隆信が切り取ったもの。まあ、上手く守ったとは思うけどね。

ただ、いずれにしても龍造寺無くして鍋島も無いんですよ。なので、もうちょっと龍造寺の歴史についても考えて欲しいなぁ。ドラマティックで面白いんですよ、彼の生涯は。

佐賀の歴史を語るには龍造寺家の推移なくしては語れず、龍造寺家の推移はそのまま宝琳院の歴史です。

この由緒ある当寺も時代の流れとともに、次第に人々の忘却のかなたに流されていくことは甚だ遺憾なことです。佐賀の根源を探り往時を振り返ることも、また意義深いことかと存じます。

九州四十九院薬師霊場会公式サイトの宝琳院の紹介文に書かれていた言葉が、ジーンと心に沁みました。

恵日山 寳琳院→Googleマップへ

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