「川上峡の戦い古戦場跡」龍造寺隆信vs神代勝利による最終決戦

龍造寺家の惣領として家中を掌握して以降、元主家であり現在は仇敵となった少弐氏を相手に戦いを優位に進めた龍造寺隆信。永禄2年(一五五九)にはついに少弐氏の居城である勢力福寺城を攻め、肥前守護である少弐氏を滅ぼした。

肥前山内二十六ヶ山の頭領、神代勝利

佐賀市富士町、嘉瀬川ダムのほとりにある神代勝利の墓

肥前守護を討ち、現在の佐賀県佐賀市と神埼市を中心とする東肥前最大の勢力となった龍造寺氏。その惣領である龍造寺隆信は、東肥前統一に向け動き出す。そこに立ちはだかったのが少弐氏の重臣であり、東肥前北部山岳地帯、山内(さんない)地方の二十六ヶ山を支配する神代勝利でした。

神代勝利は妙見信仰における北辰菩薩の化身と言われていた人で、もともとは筑後の高良大社と縁のある家柄。武芸に優れ、山岳地域における局地戦にとても強かったそうです。

龍造寺隆信との戦いのみならず、山を越えて現在の福岡市早良区の南部一帯、早良郡に侵攻して小田部氏を破るなど武勇に優れた猛将でした。

※妙見信仰とは北極星と北斗七星を神格化した信仰の一つ、護国鎮守の武神として信仰された。

「川上峡合戦」東肥前の覇権をめぐる戦い

東肥前統一に乗り出した龍造寺隆信は、少弐氏に属していた国人の中で唯一抵抗を続ける神代勝利を討つべく山内へと軍を進めます。しかし神代勢の士気は高く、また、大軍を展開できない山岳地域での戦いに長けています。そのため、龍造寺隆信は城を落とされるなど苦戦が続いていました。

決戦の地、佐賀県大和町川上に建つ與止姫神社(川上社)

春日山城を奪われた龍造寺隆信は弘治3年(一五五七)、報復のため出陣。現在の佐賀市北部にある鉄布峠で神代勝利軍と交戦しますが、石井兼清、小河信安の重臣二人を討たれる大敗を喫します。

山に攻め入っては勝てない。そう考えた龍造寺隆信は、雌雄を決するために神代勝利へ挑戦状を送りつけます。その挑戦に神代勝利が応じたことで発生したのが川上峡の戦い、川上峡合戦なのです。

ちなみに、合戦の龍造寺隆信が指定したようですが、場所や日にちは神代勝利が指定したとも隆信が指定したとも言われています。

両軍の布陣

合戦の生き証人、樹齢1450年の大楠

永禄四年(一五六一)九月十三日、かねての約定にしたがい龍造寺、神代の両軍は、因縁の戦いに決着をつけるべく河上(佐賀市大和町川上)に陣を敷きます。ここはちょうど山を降りた麓にあたる場所、山を背にした平らな土地が広がる地域です。

山に籠れば負けなしの神代勢が、なぜ大軍を展開できる平地へ降りてきたのか。それはこの地ならばすぐ背後が山になっており、龍造寺軍を上手く引き込むことが出来れば隆信を討てる可能性があったからだと言われてています。

「山内の難所へ誘き寄せて地の利を得れば隆信を生け捕りにして勝つことが出来よう」

という意見が出されたとか。

かくして川上峡に集いしは、神代軍七千余、龍造寺軍八千余、の強者ども。数の上では龍造寺軍がやや優勢、しかし猛将神代勝利に率いられた山岳兵は強兵として知られています。

軍勢の状況

神代軍

本陣:神代勝利率いる兵千二百余。場所:川上社西総門、実相院仁王門前

右:嫡男神代長良率いる兵三千余。場所:宮原口(西山田)

中央先手:次男神代種良率いる兵千三百余。場所:宮の前南大門

左:三男神代周利率いる外様衆、兵千五百余。場所:都人来(ととぎ)原

龍造寺軍

本陣(左):龍造寺隆信率いる兵三千五百余。場所:西山田

中央:納富信景率いる兵二千五百余。場所:南大門前

右:実弟龍造寺信周率いる兵二千余。場所:都人来(ととぎ)口

迎え撃つ神代勝利、現在の川上社西側、実相院の仁王門前付近に本陣を置き、その前方に嫡男長良、次男種良にそれぞれ三千と千三百の兵を与えて先行させた。さらに川を渡った対岸、東側には龍造寺隆信に追われた八戸氏残党など、反龍造寺戦力を集めた外様衆を三男周利に預けて布陣させる。対する龍造寺隆信はそれぞれの軍勢に相対する形で布陣、自らは神代勝利の嫡男長良と対陣し、兵三千五百余を率いて本陣とした。

合戦推移

合戦は神代勢による攻撃によって幕を開けました。まず攻勢にでたのは神代軍右翼、嫡男長良が正面の龍造寺軍本陣へ攻撃を開始。これに応戦する龍造寺軍、序盤の勢いは神代勢にあり龍造寺本陣は敵の突撃に崩され浮足立ちますが、数に勝る龍造寺軍は徐々に冷静さをとりもどし押し返します。戦況は膠着し、乱戦による消耗戦が展開されます。千が一になるまでといわれるほどの激しい戦いとなりました。

続いて中央、そして神代軍左翼、三男周利も戦闘状態に。両軍激しい乱戦となるなか、ここで神代軍左翼を率いる神代周利が暗殺されます。龍造寺からの間者がまぎれており、刺殺されたのだと伝わります。神代勢の他の陣は山内衆による軍勢でしたが、ここ左翼は外様衆、少弐勢力の残党を集めた部隊でした。そのため、間者を紛れ込ませることも容易だったのでしょう。

大将を討たれた神代軍左翼は総崩れ。前方の敵を退けた龍造寺軍右翼は、川を渡り神代軍の中央、種良の軍勢に攻撃を開始します。

自軍の3倍以上となった龍造寺軍に、二方向から挟撃される種良率いる神代軍中央。必死の防戦も虚しく壊滅、大将の神代種良は討死。

戦況不利とみた神代勝利率いる本陣は、せめて最大の兵力を率いる嫡男長良を救援しようと龍造寺本陣への突撃を準備します。しかし完全に勝機を逸した状況で大将まで討たれては一大事、重臣による必死の引き止めにより勝利は撤退を開始。長良は味方が総崩れとなった様をて、「もはやこれまで」と自害しようとしました。しかし家臣が自らを犠牲にして退路を開き、無事撤退に成功します。

龍造寺隆信は勝敗が決したのを見届けると、山地での戦いが得意な神代勢を深追いすることなく多くの捕虜を得て引き上げました。

神代勝利はこの戦で次男、三男を討ち取られ、更に一族の者多数、福島、梅野といった山内の有力者の一族も討ち取らます。一時は龍造寺隆信と東肥前の覇権を争った神代勝利は、ここに龍造寺隆信と対抗する力を失いました。神代勝利、長良父子はこのあとしばらく龍造寺隆信に対抗し続けますが、この時に受けた痛手もあり、更に勢力を拡大し続ける龍造寺隆信に抗しきれずに和睦。軍門に下ることになるのです。

古戦場を歩く

川上峡の戦い、その舞台となった川上峡(佐賀市大和町川上)は平野部と山地との境に古くから栄えた場所。川上社や実相院といった歴史ある寺社が建ち、山の中には巨石信仰にもつながる巨石群があります。

両側から山が差し迫る中、嘉瀬川が悠々と流れる美しい渓谷。かつては九州の嵐山と言われたほどの景勝地で、古き良き時代の賑わいを偲ばせる趣ある地域なのです。

川上の地には肥前一宮與止姫神社があり、その西側には行基によって建てられたと伝わる実相院があります。この寺院の山門、仁王門の前に神代勝利の本陣が置かれたと言われています。

現在残る仁王門は江戸時代に建てられてもので、その正面には與止姫神社の西門があります。この西門は室町時代に建てられたと伝わり、大友宗麟によって神社が焼き討ちにあった際も燃え残り、一部を修復されて今も当時の姿を伝えています。

柱の楠材は室町時代当時のもの、修復されたのは川上峡の戦いから十二年後。神代勝利も、この門を見た事でしょう。同じ場所に立ち、同じ門を見る。そうして過去の出来事を思うとき、時代は違えどしっかりとした繋がりを感じることができます。

與止姫神社の西門、実相院仁王門の前から南方向へ走る道。神代種良が布陣した宮の前南大門がこの先にあったはずなのですが、現在は残っていません。それでもせっかく来たのですから、痕跡を求めてしばらく歩いてみる事にしました。

しばらく歩くと、道沿いにこのような石仏と祠を発見。神代種良が討ち取られた場所に両軍の供養塔があり、川上の神社から南へ400mとのこと。

場所的に丁度良い所にあるので、おそらくここが種良が戦死した宮の口御手洗橋で間違いないと思われます。

さらに東へ伸びる街道との交差点になっていて、東の街道方向を見ると大きな墓地。寺院跡のように見えます、ここは古くからある街道なのでしょう。

肥前一宮の大門ですから、もちろん街道沿いにあったと思われます。なので、この場所を南大門があった場所と仮定しましょう。

南大門があったと思われる場所から北方向、神代勝利が本陣を置いた仁王門前方向を見てみました。合戦時はこの正面に神代種良率いる軍勢の陣があり、激しい戦いが繰り広げられたのでしょう。

川を越えて敵が押し寄せてきた瞬間、ここで戦っていた両軍の兵士は何を思ったんでしょうね。絶望と希望、相反する思いが衝突した場所です。

千が一になるまでと言われた激戦地、佐賀市大和町西山田。ちょうど神代勝利の本陣方向を見ると、かなたに川上峡にある龍登園の白い建物が見えます。

南の平野部を背にして神代領であった山内方向を見ると、すぐそこまで山が迫っている様子がよくわかります。ここで龍造寺隆信の本陣三千五百の兵と、神代長良三千の兵が激突。最後まで乱戦が続いていました。

ここで相手を押し込んでから引くことで龍造寺本陣を誘い出し、そのまま山の中へと引きずり込むことができたなら……龍造寺隆信が討ち死にした沖田畷の戦いのような大将討ち取りがあったかもしれませんね。

神代勝利が狙っていたのは、ひょっとして島津軍の戦術として有名な釣り野伏だったのかもしれません。

もう一度、拙者が独断と偏見で書いた布陣図を引っ張り出してみると、左翼周利と中央種良が敵を防いでいる間に右翼の長良が敵を誘引しながら後退。

後方の山岳部に誘い込んで、勝利の本陣が後背を衝いて平野への退路を塞ぐ。もし実現していたら面白いですよね。まあ、拙者の妄想ではありますが。

続いて神代勝利の三男周利が陣を置いた場所、最初に崩れてしまった都渡城(ととぎ)を見てみました。勝利本陣から川を挟んでみてみると、少し高さのある高所になっています。左端に写っている白い建物は龍登園というホテル。目立つので目印に最適。

実際に現地に行ってみると、このように登り坂がずーっと続いて行く高地になってるんです。神代勢が布陣した他の場所が平地だったのに対して、この場所だけが高地になっているんですよね。

すっかり住宅街になっていますが、佐賀方面を見ると彼方まで平野が続きます。

ただ、付近は都渡城だけが高地というわけではなく、佐賀方面、龍造寺信周率いる右翼部隊が布陣した方向も高地になってるんですよね。ちょうど玉林寺というお寺がある山があって、その尾根が川にむかってせり出しているのです。

なので互いに高所に布陣して、その間の低くなった原っぱのような場所。ここで両軍が激突したのではないかと思うのです。

川方向にせり出した尾根と、都渡城の間には原っぱのような平地に田畑が広がっています。両軍とも高所に陣を置いて、開戦と同時に駆けおり、この原っぱで激突したのではないかと思うんですよね。

で、戦闘が始まったところで大将が暗殺された。その結果、最初に崩れたのがこの都渡城の陣なのです。

神代勢の左翼を破った龍造寺信周、すぐさま川を渡って対岸に布陣する中央へと攻め込みます。

ちょうど都渡城から川を渡る辺りに建っているのがこの鉄道の記念碑。なぬ⁉と思ったんですけど、かつては佐賀中心部からここまで汽車が走ってたんですよ。観光地としてもにぎわっていたんです、今は昔ですが。

そういえば、この川上にある與止姫神社は龍造寺隆信の祖父らが殺された粛正の現場にもなっているんですよね。

土地に受け継がれる歴史、そこで営まれる人々の生活。歴史上の人物と同じ場所に立ち、同じ風を感じ、そして過去の出来事に思いをはせる。リアルに歴史を体感できる瞬間、時間の連続性というか繋がりを身をもって知ることが出来ます。

ただ目の前に無造作に投げつけられる商業目的の広告に釣られるのでなく、自ら歴史を調べてゆかりの地を訪ねる。そんな旅は、とっても贅沢。面白いですねえ。

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