「一木・アカシ堂・威徳寺」佐賀を追われた龍造寺隆信が奪還の兵を挙げた場所

円月の名乗っていた僧が還俗し、龍造寺の家督を継いだ。龍造寺隆信、彼は地方の一国人領主でありながら、大勢力の狭間で力を付け、やがて北部九州の大半を支配下する大大名になる男。しかし家督相続直後は内部に対立を抱えており、その支配は一筋縄では行かなかったのです。

龍造寺隆信を追放

出家し、宝琳院で僧として活躍していた円月は、粛清により一族の多くを失った事で還俗し、分家である水ケ江龍造寺氏を相続。さらにその後、龍造寺宗家の当主が死亡。宗家当主の妻を娶る事で龍造寺宗家をも相続し、龍造寺一門を束ねる惣領となりました。

龍造寺隆信は主家である少弐氏に散々煮え湯を飲まされていて、父や祖父を始めとする家族の多くを討たれ、もはや主と仰げるような存在ではなくなっていました。そのため、少弐氏と敵対する大内氏の勢力に属することとなり、大内義隆から偏諱(へんき)を得て、名を龍造寺隆信と改めます。偏諱とは名前の字をもらうことね。

しかし、もともと龍造寺は九州の大名である少弐傘下。同じ九州の大大名である大友氏も少弐氏に肩入れしていた関係で、龍造寺家中にも親大友派が居るわけなのです。大友と大内は当然ながら対立していて、親大友派の重臣たちは大友寄りの龍造寺鑑兼を当主とし、大内派である隆信を追放することにしたんですね。

その中心人物が土橋栄益で、他に十九家の城持ち国人が賛同し、天文十二年(一五五一)十月に連合を組んで水ケ江城を攻撃。さらに龍造寺隆信の居城である村中城を包囲し、筑後へ追い落とすことに成功したのです。軍事クーデターの成功、下克上です。

「大川市一木」龍造寺隆信が雌伏の時を過ごした場所

佐賀から筑後川を渡ってスグ、大川市一木の交差点。

佐賀村中城を追われた龍造寺隆信は、妻を含めた一族と、一部の近しい家臣のみを連れて筑後に逃れます。そして曾祖父と同じく蒲池氏を頼り、一木(ひとつき)の地に三百町を与えられてしばらく暮らすことになりました。

この一木は、曾祖父である家兼も佐賀を追われた際に暮らした地。龍造寺と因縁のある場所なんですね。

昔ながらの街並みを残す一木のメインストリートっぽい場所。

一木の何処に隆信がいたのかは分かりませんが、このあたりが昔ながらの集落で最も商店が立ち並ぶ場所。なので、隆信も歩いたことがあるのではないか、と、勝手に妄想しながら街歩き。

通りにはこんなお堂があったり。

大きなお寺もありました。

公民館と合体したお宮。

筑後川、一木から佐賀方面を撮影

一木は川に面した地域、目の前は肥前と筑後を隔てる大河、筑後川です。当時は千年川とも言われていたようですが。隆信も河川敷に立って佐賀の方角を眺めたんじゃないでしょうか、「あの野郎ぬっころす」とか言いながら。

しばし佐賀方面を睨みながら、隆信の気持ちにリンクしてみる……

アカシドウ(燈堂)龍造寺隆信上陸の地

天文二十一年(一五五二)龍造寺隆信は居城奪還と龍造寺宗家の家督をとりもどすために密かに佐賀への帰還を試みるけども、残念ながら失敗。上陸地点を間違え、敵地に侵入して追い散らされてしまいます。しかし一度の失敗であきらめるはずもなく、あくる年の天文二十二年七月二十五日、再び挙兵のため一木を出発。対岸にある佐賀郷川副郡鹿江崎に上陸しました。

上陸地点には、龍造寺隆信像が祀られています。

龍造寺隆信が大友宗麟に内通した家臣に追われ、筑後の一木に逃れた事、そして一五五三年の七月にこの地に上陸した事がかかれている。この地が上陸地点になったのは、ここに航路の安全を祈る堂があり、火を灯していたからだということです。

隆信はこのときの案内役を務めた漁師、園田次郎兵衛と犬井道新兵衛に対し、褒美として定置網漁の特権を与えました。

今は筑後川の大川市と佐賀市との間に大きな島があり、早津江川という川が間に流れているのですが、龍造寺隆信がここへ上陸した当時は南北に別れていて、島と島の間を通ってここへ直接これたそうです。

上陸地点に建つ龍造寺隆信の石造。やっぱふくよかに作られてるんですね。

ということで、龍造寺隆信一行はここへ上陸し、いよいよ挙兵の地、威徳寺へと向かうのです。

「威徳寺」龍造寺隆信が奪還の兵を挙げた場所

無事上陸を果たした龍造寺隆信は、二十七日には同じ地域内にある威徳寺へと移動。ここで隆信に従う国人と合流し、いよいよ佐賀奪還の兵を起こします。

威徳寺にかけられた看板には、ここで龍造寺隆信が旧領回復のため挙兵したことが書かれています。さらにこのお寺には龍造寺隆信の画像と、隆信が使用したと伝わる陣太鼓があるそうです。あるなら見せてほしいですよね。

てかさ、佐賀って龍造寺関連の展示物が異常なほど少ないのよ、これほどの著名人というか有名な戦国大名なのに。九州三国志なんて言われるくらいだからね、龍造寺、島津、大友って。なのに県立博物館にも展示がちょろっとしかなくて、すごく残念。というかもったいない。

威徳寺の山門、奥に見えているのが本堂です。

威徳寺の本堂。この場所で龍造寺隆信が挙兵したわけですよ、なんか言ったのか言わなかったのか、とにかく同じ場所に立っていたのです。

今でこそ境内はこじんまりとしていますが、昔の寺は大きかったみたいですからね。

ここに集った武将は、威徳寺がある鹿江(かのえ)を領する鹿江兼明・久明、石井和泉守・石見守、村岡帯刀、副島、御厨、久米、飯盛、古賀、南里、犬塚、末次といった近隣の国人衆。

いよいよここから、龍造寺隆信の快進撃が始まるのです。

今回入った場所、地図に落とすとこんな感じ

いよいよ旧領を回復し、佐賀における実権をとりもどす兵をあげた龍造寺隆信。

続きはまた、近いうちに取材してきます。

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