龍造寺一族を罠に嵌めて粛正した現場「川上社頭の戦い・祇園原の戦い」古戦場を征く

戦国的街歩きを始めたのよ、ソレガシ。それも福岡市周辺で。別に福岡にこだわりがあるというワケではないのですが、住んでいるのが福岡市内なので。だって遠くに行くには時間もお金も必要になるし、主に先立つもの的な理由で福岡市から1時間前後というのがボーダーになってるんですよね。

ですので、我が家から1時間で行ける範囲にいる戦国ヒーローと言えば九州三国志の立役者「龍造寺隆信」になるわけで、今回もこれからも、当分は龍造寺寄りの発言が続くと思いますが何卒ご容赦たまわりたい次第なのです。

凄惨!! だまし討ちで龍造寺一族を粛正

龍造寺家純、家門、純家ほか、約40名が襲撃を受け討ち死にした川上社

とりあえず今回訪れたのがどんな場所かを述べますと、「生え抜きで古株の重臣」が、「地元で急激に力をつけてきた同僚」にビビってしまい、罠に嵌めて皆殺しにしてしまえっ!! という計画を実行して、マジでぬっころしてしまった。という、凄惨な粛正が行われた現場です。

1545年、戦国時代も後半に差し掛かるころ、この佐賀には少弐という鎌倉以来の立派な大将がおりまして、龍造寺もイロイロいきさつがありながらも少弐さんに仕えていたわけですな。で、そこにはまあ、他にも色んな人たちが、この時代だと国人とか豪族とかいわれる自前の領地と軍を持つ領主が武将として少弐さんに仕えていたわけだけども、その中でも生え抜きの重臣で馬場さんという人が居まして、馬場頼周(ばば よりちか)というんですけども、そのひとが龍造寺を排除するために大粛清をやってしまうわけです。

そもそもこの少弐さんという大将が幕府の機関である鎮西探題と喧嘩して、探題を支援するように幕府から要請を受けた周防山口の大内氏さんと戦争して負け続けるわけです。この少弐さん、筑前の大宰府が本拠地だったんだけれど大内さんに追い出され、肥前佐賀の神崎という所に逃げてくるわけです。でまあ、龍造寺を始めとした佐賀や神埼の国人に助けられたりして、何とか家の命脈を保つわけですけども、龍造寺さん、とくに家兼(いえかね)という人が活躍しすぎるわけなんですよ。活躍って当時のアレだと武功ってやつね、武功を重ねれば褒美がもらえるわけで、これが鎌倉以来の武士の主従関係だから。

そうすると領地も増えて力を増していくわけで、それが面白くない馬場頼周さん。同じようにクソ龍造寺うぜえ、これって格差社会じゃね⁉ リア充爆ぜろ!! なんて思ってる連中を巻き込んで、あいつ叩き落としちゃおうぜ作戦を発動してしまうわけです。

具体的には、申し合わせた仲間が反乱を起こすわけですな、龍造寺を嵌めるためなのでフリだけども。でもって龍造寺に討伐の命令を出すわけです、少弐さん名義で。

反乱は複数カ所で同時多発的に起こり、まず島原の有馬さん、あとは同じ佐賀の多久さん、唐津の波多さんなんかが暴れるわけです。命令を受けた龍造寺家兼さんは真面目だから、それぞれの反乱に対して討伐部隊を編成し、3部隊にわかれて鎮圧に向け出動。こうやって兵力を分散させられた家兼さん、龍造寺だけで全てを倒すことなどできず少弐の大将に援軍を要請するんです。が、援軍きませんよね、龍造寺を潰すための策略なんだから。ここでもう悲惨な状況、タスケテー!! の声は、誰にも届かない。

結果、戦で負けてしまい、龍造寺一族や重臣から討ち死にも出る始末、さらに勝ちに乗じた反乱軍が佐賀に乱入。水ケ江城を囲まれるんですな。

進退窮まった龍造寺家兼、そこへ助言したのが少弐の重臣であり策の立案者であり、粛正を主導する立場にいる馬場頼周さん。騙されていると気づいていない龍造寺兼家さんは、ぞの助言に従って城を明け渡すことを決意。自身は筑後へ落ち、息子たちを筑前へ落とし、そして孫を少弐の殿様の元へ謝罪に行かせることにしたのです。

もちろんこ策はこれで終わりじゃなくて、まず息子は川上神社で襲撃を受け自害、そして孫は祇園原で待ち伏せされ討ち死に。龍造寺の一族六名とその一行を皆殺しにするという、大粛清が行われたわけです。

でもって、今回訪れた場所が、まさにその現場となったばしょ……なんですよね。

粛正現場を歩く

龍造寺周家、家泰、頼純が待ち伏せされ討ち死にした祇園原

さぞかし無念だったろうね。もし世の中に霊というものが存在するのなら、こういうところで地縛してそうなんだけど。まあ、霊なんてものはいるわけがないので、アレですが。てかさ、本当に居ると嬉しいよね、人の死が無に帰るだけじゃないって証明になるんだから。霊が存在するということは、死後の営みがまたあるということ。それはそれで、とても楽しみです。ありえないけど。

ということで、古戦場跡とでもいうべきか粛正現場に行ってきました。

現場その一「與止日女(よどひめ)神社」川上社頭の戦い

1545年1月23日、龍造寺家兼は一族の内、嫡男の家純と家門、孫の純家に四十余名をつけて筑前へと向かわせることにしました。筑前とは現在の福岡市や糸島市を中心とする地域、福岡と佐賀は背振山系の山を挟んで表と裏みたいになってる。そのため、山越えルートで向かう事になるのです。けっこうハードな山が目の前にドーンなんだけど、昔は普通に越えてたみたい。すげー、昔の人スゲー、まじでスゴイと思う。

佐賀市と福岡市は境を接するお隣の市。都道府県の県庁所在地どうしが隣接しているのは全国で三カ所、ここ福岡市と佐賀市、その他には京都市と滋賀県大津市、宮城県仙台市と山形市がある。

筑前へのルート上にあるというか、ここから山に入っていくぞ!! という入口に建ってるのが、悲劇の現場となった川上社(與止日女神社)なのですよ。

地図:国土地理院

場所は佐賀市大和町川上1-1

市の重文「三の鳥居」初代佐賀藩主の鍋島勝茂が1608年に寄進した肥前鳥居

山越えを前にして佐賀からこの地まで歩いてきた一行は、ここで一夜を過ごすことにしたのでしょうね。翌朝には出立して山越えに挑まねばならず、ゆっくりと休んでいたところを神代勝利、馬場政員の軍勢に襲撃されるのです。この戦いは『川上社頭の戦い』といわれているそうです、ググっても全く出て来ませんが。

川上社の社殿、本殿、弊殿、拝殿、神饌所からなる。江戸時代の終わりごろ、1816年に再建されたもの。

いま拙者が歩いているこの境内、まさにこの場所で血で血を洗う戦いが繰り広げられていたはずなのです。鉄道だと写真好きの撮り鉄とか、のるのが好きな乗りテツとか、音が好きな音鉄なんかが居るんだけど、歴史好きで現地にイク派はなんと呼べばいいんだろう。

イキ史、イク史、いってみる史……行くレキ、行動歴⁉ どれもイマイチしっくりこない、誰か考えてくれ、SOS救援もとむ。

歴史好きの中でも拙者はどちらかといと学問的な研究や探求よりも、今どきのミーハーな人たちの間で流行っている聖地巡礼的な感覚で、歴史上の出来事、その起こった場所に行くのが好き。研究は学者先生に任せて、自身はその研究結果を元に現地に行ってスゲー、まじスゲー!! ワンダフルでファンタスティックと大興奮したり、時々ノスタルジックな気分になったりセンチメンタルなジャーニーをしたりするのが大好きなのです。

女性器に向かって突き進む男性器のような岩、金精さん。

深夜寝込みを襲われた龍造寺の人々、必死の防戦をするものの完全武装の甲冑武者相手に多勢に無勢ですからね、ほとんど一方的な殺戮に近かったんじゃないかと想像できるんです。そんな中で家純は社殿を飛び出して奮戦、大きな石を盾にして戦った事から、その石は屏風岩と名付けられたという。ならば!! 探さねばならんでしょう、その屏風岩を……と思った時がありました、それらしいものは見つからないというか、どれがどれだかわかりませんでした。

そんな中で見つけたのが金精さん、殺伐とした戦国へとトリップしていた拙者をほのぼのとした下ネタで現世へ引き戻してくれました。いやぁ、いいよね、世の中男と女しかいないんだから。

レッツ子孫繁栄タイム!!

室町時代、1470年以降の中世期に建てられたと伝わる西門。

残念ながら屏風岩を見つける事は出来なかったのだけど、当時の生き証人というか、現場にあったであろうと思われるのがこの門。

建てられたのは室町時代、1470年代ということなのでひょっとしたら神代さんあたりがくぐったかもしれませんね、そう考えると歴史の連続性とかそんなものをリアルに感じることができるのですよ。この門の柱に当時の侍が触ったというか、触れたはずですよ、少なくともこの門をくぐってるのです。その同じ場所を、400年以上経過した現代の拙者が触れて、同じ門をくぐってるわけです。

これってヒジョーに凄い事だと思うんですけど。

樹齢約1450年の大楠

他にも樹齢1450年というとてつもなく長生きの大楠がありました。てかさ、佐賀だと樹齢1000年クラスはごろごろしてるんだよね、3000年超えるのもまだ元気だったりするし。

この楠もまた、この地で起きた様々なものを見てきたのだろう。川上社は意外と戦火に巻き込まれてるんですよ、いわばバトルフィールドの守護神社みたいな。キリスト教に狂って領民である日本人を不幸のどん底に叩き落とした大友宗麟には焼かれるし。

現場その二「祇園原古戦場跡」祇園原の戦い

祇園原古戦場跡に建つ祇園社の鳥居

龍造寺一門が討たれた祇園原古戦場に建つ祇園社。

自身と嫡男を落とした龍造寺家兼は、嫡男の息子、つまり孫を佐賀神崎の勢福寺城にいる主君少弐冬尚さんに謝罪の使者として向かわせるわけです。まあ、これも「とりあえず謝罪の使者も出そっか」と馬場さんに言われたからなんだけど、これも全部、龍造寺を嵌めるための罠なのですよ。

祇園社に鎮座する観音像

鳥居の隣や参道に観音像があるのですが、これが果たして、祇園原の戦いと関連しているのかどうかは全く不明。こういうところの言い伝えとか、伝承とか、由来とか、そういう説明ってほとんどないんですよね。いろんな観光地なんかにいくんだけど、ただ古いものがあるだけでは何の意味もなくて、それが何なのかが分かると急に興味を持つ者なんですよ人って、メイビー。

神埼市が立てた「祇園原古戦場跡」の碑

鳥居の裏側にひっそりと建てられた『祇園原古戦場跡』の碑。非常に見つけにくいところにあるし、さらに言うと、いつ、誰が、誰と、どんな戦いをしたのか。が、全く分からないのでとても残念。拙者のように事前にしらべて歴史的出来事の聖地巡りにやってきたのならば問題もないのでしょうけど、そんな奴めったに居ないって。

いつも思うんだけど、やることが雑なんだよね、行政って。どうせ予算をかけるのならば、ちゃんとやりましょうよ。ガッカリ感というか、虚しさが込み上げてきますね、納税者として。

祇園社の境内、奥に社殿が建つ

勢福寺城にある少弐館へ向かうのは龍造寺周家、家泰、頼純の一族三名とその郎党たち。周家は龍造寺隆信の父親なのだ。

現在の佐賀市久保泉町にある玉泉坊で一夜を明かした一行は、主君である少弐氏が居する勢福寺城を目指し先を急ぐのだが、神崎の祇園原に差し掛かったところで馬場頼周の家臣である薬王寺隼人佑率いる軍勢の待ち伏せに合い、前後から挟撃されてしまう。

馬場の策略を察した鍋島清久は引き返して「馬場を討つべし」との使者を出すのですが、大将郎党ことごとく敵勢に囲われた状態。周家は「皆、潔く討ち死になされよ」と叱咤して奮戦、最後は神代勝利の家臣である馬場四郎左衛門に討たれました。鍋島から遣わされた使者、野田越前守も共に敵勢に討ちかかり討ち死にを遂げたそうです。

地平線まで続く田畑、いかにも佐賀らしい風景

ここで不意打ちをうけながら絶望的な戦いに身を投じた龍造寺の戦士たち。必死で運命に抗おうとしたのでしょうけど、武運拙くその生涯をここで閉じる事になる。しかし、この一件が皮肉にも一人の英雄が世に出る切っ掛けとなり、龍造寺の家は全盛の時代を迎える事になる。最後は乗っ取られる事になるのだけど、そんな激動の時代の引き金となった事件の現場。それがココなのです。

勢福寺城がある城山方面を撮影

玉泉坊は現在の也足寺の近くにあったとされ、討ち死にした衆の遺体は也足寺の住職が自寺内に葬ったという。現在は鍋島さんに高伝寺に移されたけど。

地図で見てみると、ここ祇園原は玉泉坊から勢福寺城に向かうちょうど中間点くらいの場所。さすがに周辺の風景は当時と全く違うだろうけども、山の稜線なんかはほぼ当時のままだと思うんです。時代は違えども同じ場所で同じ山を見る、そうすると過去と今がリンクする。

過去の出来事を知識としてではなく、実際に起きた事として実感出来るというのが現地に行く楽しさなのです。

人を呪わば穴二つ

さて、自分の息子や孫をことごとく討ち取られた龍造寺家兼さん。もちろん激怒するわけですよ、そして龍造寺に従っていた国人衆も奇襲と謀略にしてやられたとはいえ、このまま黙っているわけもなく。水ケ江城奪還の兵を起こし、筑後から佐賀の地へ帰還。そして首謀者である馬場頼周を討つべく攻撃を開始、最後は自らが龍造寺家純らを討ち果たした與止日女神社に追い詰められ、芋釜に隠れていたところを引きずり出されて討たれたという。

なんというかね、因果応報というか人を呪わば穴二つというか、とにかく人を恨み、妬み、罠に嵌めたりすると恨みを買って自分が同じ目に合う事になるんだというお話なんです。

そしてこの行為を後押しした主君である少弐氏は、この事件がきっかけとして誕生した龍造寺隆信という稀代の英雄によって自害に追い込まれるわけなんです。龍造寺一門は少弐を裏切った事などないんですね、なのに奸臣の謀略に加担してしまった少弐冬尚。結果として、邪魔者を排除したつもりが自らの命を縮めることになりました。

やっぱ歴史の舞台を訪ねるのはいいですね、繰り返しになるけど、自分の意識を過去にコネクティングできるんですよ。脳内タイムスリップみたいな。ほんと楽しいので、絶対おススメ。

【今日のグルメ】佐賀県で1番のカツ丼

佐賀県で1番のカツ丼!! と評判の、名物カツ丼だそうですな。実はな、カツ丼には目がないのじゃよ、ソレガシ……

いや、ほんと、マジで、どれくらいカツ丼好きかというと、牛心という牛丼屋でカツ丼頼んだり、資さんうどんといううどん屋でもカツ丼だったり、昔働いてた会社の社員食堂で注文するのは必ずカツ丼だったり、ホットモットで昔ダブルカツ丼ってのがでたときは、ダブルカツ丼エブリデイだったりするくらい好きなのです。

なので

佐賀県1番と堂々と謳ってる男らしい看板ですよ。

こんな看板出されたら、立ち寄らないわけにはいかないでしょって話。もしこのまま通過しようものなら、それこそ後ろ髪惹かれるどころじゃない、引っ張られて引きずられて、引き倒されて後頭部を強打するレベルで未練たらになるはずですよ。

場所は川上の神社から車で南(佐賀市内方面)へ10分もかからない。

普通に駐車場へ車を止め、店の入り口に貼られたコレ。丸徳のカツ丼はカツの幅広でカットするそうですよ、しかも秘伝のタレなのですよ、期待が膨らむじゃねえかコンチクショウ!!

カツ丼にえび天をプラスした丸徳丼¥1,100也

でもってカツ丼もただのカツ丼じゃなくて、プラスでエビ天が2尾入った豪華版を注文しちゃいました。どうッスかこれ、玉子半熟トロトロ系の逸品ですよ。チョット1,100円は勇気いりましたけどね、最後は気合ッスよ、やるときゃやるんだって根性見せとかねえと、結局ほら、最後は覚悟の問題ッスよマジで。ちな、カツ丼は850円。

しかもお吸い物付き、このお吸い物が昆布だしがガッツリ効いててさ、うんまいのよ。ふるさと大坂の味を思い出したっちゅうねん、ほんま、しょうみの話。

幅広カットのカツ、タレもそうだけど肉もウマい

さっそくカツ、先にえび食ったけど、やっぱカツ。エビ天はエビ天、けっこう普通なんだけど、開いてあったからね、プリうまでした。

で、名物カツ丼の、入口で書かれていた幅広カットとご対面してみたんだけど、これはアレだね、刺身のアレ、そぎ切りみたいな斜めにスパッといっちゃってる刺身切り。なので断面がとても広くなってる。

でもって一口食べてみるとさ、口の中がカツに支配されちゃうわけなんですよ。まずタレはシッカリ濃い味なんだけど、喉が全く乾かないんだよね。不思議、濃いのに塩気は抑えめなのかな。でもってカツ、これ無菌豚だから少し生でも問題ないんだよね、まあ、ちゃんと火が通ってたけども。それでも無菌豚、そこらの安物輸入品じゃねえんだよ。だからなのか、肉の味も濃い、豚の脂の甘さと肉の旨味がグッとくるね、グッと、ググっと来て肉を食べてる感がかなりシッカリしてる。

玉子もいい感じで半熟部分があってね、フワトロしてるわけですよ、フワトロ。佐賀で1番かどうか判断できるほど佐賀のカツ丼を食べ歩いたわけじゃないけど、今まで食べたカツ丼とは一線を画するかなり美味しいカツ丼だったことは間違いない。まあ、その分少し高いんだけど。

いや~、こうやって歴史旅に行くと、その先で食べる昼飯もまた楽しいんだよね。ごちそうさまでした。

今日行ったところまとめ

與止日女神社→Googleマップへ
関連記事:「與止日女(よどひめ)神社」佐賀市川上、龍造寺vs神代!!因縁の地

祇園原古戦場跡→Googleマップへ

丸徳大和店→Googleマップへ

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