「与賀城跡(龍泰寺)」龍造寺三家の一つ与賀龍造寺の居城、少弐氏の為に建てられた城

村中龍造寺(宗家)、水ケ江龍造寺(隆信の実家)そして、与賀龍造寺、この3家で戦国時代に乗り出して行った龍造寺氏。今回訪れたのは与賀龍造寺氏の居城があったとされる、与賀城跡。この城は後に龍造寺隆信によって龍泰寺というお寺が建てられました。

与賀城跡(龍泰寺)

与賀城が建てられたのは1482年、少弐政資が佐賀龍造寺氏の居城の西側にあった父教頼の館を改築して築いた城と伝わっています。少弐政資は戦国初期の武将、少弐氏15代当主。少弐氏は筑前・豊前(現福岡県北部一帯)と肥前(長崎、佐賀)を領有した守護大名だったのだけど、鎌倉、室町の戦乱でその勢力を大きく減じ、戦国初期には本州の山口に拠点を置く大内氏の攻勢にさらされていました。その際に追い詰められ龍造寺氏を頼ったとされています。

さらに応仁の乱後には幕府より政資の追討令が出され、大内氏と幕府の九州統治機関である鎮西探題の渋川氏による連合軍に圧倒され筑前を放棄して肥前に逃れました。その時に建てられたのが与賀城と言われています。ちなみに、少弐政資は佐賀から多久の梶峰城へと落ちていったのですが、最後は受け入れを拒否され自害しました。

龍造寺本家の村中上、分家の水ケ江城、そして与賀龍造寺の与賀城の位置関係(筆者の推測による)

与賀城のその後は龍造寺胤家(りゅうぞうじ たねいえ)が居城とし、与賀龍造寺氏となり宗家村中、分家水ケ江龍造寺とならび龍造寺三家の一つとなります。龍造寺胤家は龍造寺隆信の母、慶誾尼(けいぎんに)の大伯父(祖父の兄)に当たる人物。

更に龍造寺隆信は1563年、与賀城の少弐館があった場所に龍泰寺を建立。龍造寺家の菩提寺としました……それが今回訪れた場所。この時点で与賀城は廃城となっていたのかどうなのか、記録は残っていません。

どうですか、すんごい歴史のある場所でしょう。龍造寺隆信を始めとする一族の墓もここにあったのだけど、鍋島さんが高伝寺に移しちゃいました。

与賀神社楼門

佐賀市中心部にある佐賀城の北西角あたりに建つ与賀神社、この神社は与賀城の鬼門に建てられた神社で、楼門は室町期に建てられました。この楼門は与賀城と同時期に建てられたとされていて、当時の姿を今に留めています。

平安山龍泰寺を歩く

与賀城跡、龍泰寺の周辺は佐賀藩城下町時代そのままの水路が縦横に巡る場所、さすがに中世戦国時代の……とはいかないまでも、近世、江戸時代の姿をそのままに留めている事に驚かされます。

こういう水路は江戸時代に整備されたもの。かつては川から船で各家庭に物を運んだため、船着き場が残っていたり、水道が整備されるまでの洗い物をする場所が残っていたり、佐賀の中心部はこういう歴史を感じる場所が無造作に転がっています。

こんな祠や観音像、佐賀名物の恵比寿像など、歴史の生き証人が今も点在する佐賀市内。部分的に時間が止まっているような雰囲気、とてものどかな雰囲気がたまらないのです。

そんななかにドーンと現れる巨大な木造建築物、ずいぶん大きいですよ、このお寺。敷地もかなり広いし、さすが龍造寺家の菩提寺だけの事はあります。

グルッとまわると龍泰寺の入り口がありました。

お寺の前の道路は鍵状に曲がっていて、モロ城下町の道ですね。城下町というのは城の防御設備の一つにもなっていて、とにかく遠くを見通せないようこういった鍵状の曲がり角を多用するんです。

中世から近世の街並みがそのまま残る町、こういう所が佐賀らしくて好きなんですよ。

暫くあるくと、こんな楼門がありました。比較的新しそうな門、なんか雰囲気的に明治か大正時代の建物っぽいですね。

佐賀の有名人といえば龍造寺隆信に次いでこの人、大隈重信。偉大な政治家にして、早稲田大学の創設者。鍋島直茂は、信長の野望に出て来る主家を乗っ取った人くらいのイメージだからねぇ。

境内には大隈重信の立派なお墓がありました。

本堂はかなり大きくて、存在感が凄い。格式の高いお寺だけに、往時はそれこそ華やかで立派なお寺だったのだろうなぁと推測できます。

本堂の横には位牌所でしょうか、寺務所と思われる立派な玄関の建物もありました。

ちなみにこの位牌所の窓の部分、佐賀城の本丸御殿を解体した際に、その資材を使っているそうです。本堂などにも使われているそうですが、どれがそれだか分かりませんでした。

佐賀城御殿の姿を今に留めるお寺、本丸御殿を再建して大騒ぎしてるけど、本物がココにあるってのは意外と知られてないんじゃないでしょうか。

こちらのお墓は誰の墓でしょうか、古さといい見た目といい、どっかの大名の墓みたいな感じなんですけど。

創建当時の華やかさというか豪華さなどはないんだけれども、かつては相当に大きなお寺だったんだろうなと、いわゆる巨刹といわれる立派なお寺だったという事は十分に伝わってくる威容を誇るお寺ですよ。

佐賀で一番大きくて立派なお寺かもしれませんが、やはりナベシマ体制になっていまいちな存在になってしまったんでしょうか。立派だったというのが伝わって来るだけに、いまの少し荒れた感じが寂びの風景になっていて、ノスタルジックが止まらない風情あるお寺になっています。

お墓も古いね、凄く歴史を感じる墓地だ。

本堂の裏手に回ってみると、その大きさが際立って見えた。

屋根の上には日輪、十二日足紋という龍造寺宗家の家紋がずらり。龍造寺一門所縁の寺だという事を主張していました。

お寺の由緒書き

龍泰寺は、曹洞宗に属し、平安山と号す。本寺は、『五国二島(筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、壱岐、対馬)を領した』龍造寺隆信が少弐氏の居館跡に、永禄六年(一五六三年)に創立。寺名は、「龍造寺安泰」による。本堂、位牌所は、佐賀城本丸広屋敷を解体移築したもので、大正九年から翌十年に移築し、大正十一年に落成式を挙行した。位牌所の二階の花頭窓は、大書院の古材を転用したものである。庫裏も大書院の古材を転用し、昭和三年に竣工した。山門は、二重楼門で両脇に石の仏像を八体づつ安置し、明治元年の建立である。(城下町環境遺産Ⅲ 佐賀市教育委員会編を参照)

あと大隈重信の菩提寺でもあるそうで、佐賀の七賢人ってのがいるらしいけど……大隈重信以外はかなりマイナー。他はまあ、どこにでもいるご当地の偉い人レベルだからね。

また、この与賀神社や龍泰寺が建つこの界隈は、城下町の雰囲気をとても色濃く残した風情のある街並みなんですよね。歩いているだけでも、タイムスリップしたような気分を味わえる、古き良き日本の地方都市という雰囲気で、レトロでのんびりした癒しの街並みなのです。

お城情報

与賀城跡(平安山龍泰)
築城年 1482年
城主 少弐氏

住所:佐賀市赤松町2-4→Googleマップへ

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