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「直鳥城跡」戦国佐賀の環濠平城跡、龍造寺に仕えた猛将犬塚氏の居城

これほど綺麗に残っている戦国の城っての珍しい……ていうか、佐賀って歴史遺構の保存状態がとてもよかったりするんです。やっぱアレですか、開発がそれほど進んでないからなのでしょうかね。

直鳥城は16世紀初頭、1504から1521年の間に築城されたと言われる環濠平城。犬塚氏によって築かれたのですが、この犬塚氏ってのも3家あって、もともとは筑後の豪族蓮池氏の一族。筑後の騒乱を避けて肥前に土着したんだけれども、お家騒動が勃発、東犬塚と西犬塚に別れて争うようになります。原因は本家である東犬塚氏を養子が継いだことに、本家当主の弟であった当時の西犬塚氏が激怒しのがきっかけだとか。

で、この直鳥城はというと、この東西犬塚氏とは別の直鳥犬塚氏によって築かれました。

いわゆる環濠平城

見てもらって分かると思うけれど、水路を縦横に巡らせてその中に浮島のような陸地を配置。それらを迷路のように繋いで作られた城、それを私が勝手に環濠平城と呼称しているんですよね。

現地に設置されていた看板には平城(水城)ですって書かれてるんだけど、どっちだよって話。要塞的な環濠集落っていうならさ、環濠平城でいいよねって話なのです。

でまあ、この浮島のような城の郭にあたる部分にも名前がついていて、城屋敷とか鍛冶屋敷とか、こういうのがあると凄く当時の城をイメージしやすい。

お堀にあたる水路部

佐賀は街なかに水路が巡る水郷都市として有名で、昔から水路だらけだった。で、この水路のなかには大きな池のような江湖と呼ばれる場所があったり、それを利用した環濠集落が発達したんだよね。

家が百戸の集落に百五本の橋が架かっていたという話もあるくらい、水路が縦横に走る佐賀の環濠集落。それを軍事施設件、領主の館として整備したのが環濠平城ってわけ。

水路の部分もとても自然な状態で残されていて、景観的にも美しいのです。水鳥もいるしね。

戦国の城といえば水を入れてない空堀が主流だったんだけど、ここ佐賀では水路を利用して水堀のようになっている。水深も結構あるし、幅も場所によってばらつきがあるものの飛び越すのはまず無理だ。

郭を繋ぐ通路

主郭へと繋がる土橋

これらの郭は橋によって結ばれていて、それも迷路のように複雑に入り組んでいたりする。橋の種類としては土橋といわれる土で出来た恒久的に使える橋が一般的。

鍵状に折れ曲がる土橋。

もちろん土橋といえども防御機構であるわけだから、真っ直ぐ続いているとは限らない。細く狭いうえに折れ曲がっていたりして、侵攻してくる敵の行動を阻害するような構造になっていたりもする。

鍵状に曲がった橋だと、真っ直ぐ勢いよく走り抜けることが出来ないわけで、前が詰まると押し合いへし合い、水路に落ちてしまう人もでそうだよね。さらに身を隠す場所もない開けた場所で敵に姿を晒すわけで、周りの郭から狙い撃ちされるというオマケつき。

おそろしや……

木で出来た橋が架けられていた。

平時はやはり人の行き来はしやすい方がいいだろうから、木で出来た橋もかけられていたと思うんだよね。で、戦時となれば落として道を絶つことができるような。

人の身長より高い土塁を設けて通路部に門を設ける、遺構は見当たらないけど想像しやすい写真。

お城の郭に入ってみる

城屋敷と書かれていた主郭部と思われる場所

連郭形式の城でいったら主郭になるのだろうか、城屋敷と書かれた場所に行ってみると思った以上に広い。

郭のへりに建ってみると、周りの郭が浮島のようでとても美しいのだ。ただ、戦時だと周りの郭全てから狙われるわけで、まさに死地といった感じ。

いまはこうやってガラーンと視界が開けているけども、とうぜん城だった頃はこの郭に土塁がめぐらされていたわけで、土塁に隙間を作って門もあったでしょうし上から弓矢を射かける矢倉もあった事でしょう。なので中に入ると周りも見えず、いっぽ間違えば水路に落ちるし、ほんと迷路のようだったと思います。

北にある大きな郭にはお寺もありました。この寺の壁も時代を感じさせるいい雰囲気なんですよ、ていうかね、佐賀って昔の街並みがけっこうのこっててノスタルジックジャパンな雰囲気がたまらないところだったりします。

龍造寺と犬塚さん

水鳥が沢山いました

さて、肥前の犬塚さんのルーツは筑後蓮池氏で、肥前では東西犬塚氏と直鳥犬塚氏の3家があるという事と、東西犬塚氏がガチで殺し合うくらい互いにいがみ合っていたということは先で書きました。

で、この犬塚さん、もともとは少弐氏に従いながらも大友氏の庇護もうけるという二股状態。まあ、戦国時代の小さな勢力はたいてい両属状態って感じで、勝ち馬に乗るのが当たり前なので特に珍しくもないのですが、少弐氏が衰退して龍造寺氏が台頭してくると今度は龍造寺に従いながらも大友に属するという状態になります。

そんなどっちつかずの犬塚氏に訪れる危機、それは大友氏による龍造寺氏への侵攻作戦。大友が龍造寺の佐賀に攻め込んできたんですね、こうなるとどっちつかずは無理なので、東犬塚が龍造寺に従い西犬塚は大友へ、直鳥犬塚は西犬塚を支持という状態になります。

これも小さな勢力が生き残るために、両張りしてどちらが負けても家を残すというものではなく、両犬塚さんはガチで死合うわけです。西犬塚の犬塚尚重は、東の鎮直を謀殺。やっちゃった西の尚重は龍造寺の重臣、鍋島直茂に殺されます。

この3犬塚家を巻き込んだ大事件、死合いの結果は龍造寺が大友に勝利、西を支持して大友贔屓だった当時の直鳥犬塚氏の当主犬塚鎮家は筑後へ逃亡。

ただ、ここで終わらないのが犬塚さん。なんと、直鳥犬塚の鎮家さんは、凄い豪傑だったんですね。で、龍造寺隆信がどうしてもお前の武勇が必要だなんて口説くもんだから、龍造寺隆信に仕えて両弾二島(龍造寺氏配下の武勇優れた4人)に数えられたのだとか。

筑後から呼び戻された直鳥犬塚の鎮家さん、肥前に戻ると西犬塚家の居城であった蒲田江城を与えられます。ここで直鳥城は廃城となり、城跡を利用した集落へと変化して今に至る訳なのです。

直鳥城の情報

直鳥城跡の航空写真、画像は国土地理院公式サイトより

所在地:佐賀県神埼市千代田町直鳥535−1→Googleマップへ

築城年代:1504年から1521年の間
所属勢力:直鳥犬塚氏

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