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「蓮池城跡」鍋島直茂も城主を務めた佐賀の重要拠点、肥前の名門小田氏の居城

佐賀鍋島藩の支藩、蓮池鍋島藩の陣屋敷にもなった城跡。佐賀の重要拠点「蓮池城」は、鍋島直茂など龍造寺一門が城主を務めた城。龍造寺隆信が何としても手に入れるべく、味方であった小田氏の居城を奇襲攻撃にて電撃的に占拠した。

肥前蓮池城、戦国の非情な運命に翻弄された城

蓮池城跡遠景

肥前佐賀の蓮池城は常陸国(茨城県)の名族、宇都宮市の一門である小田氏から肥前に下った小田直光によって築かれた城。築城年は応永三十四年(1427年)に築かれたとされる。ちなみに応永は三十五年まで続き、昭和・明治に次いで長く続いた元号なのだそう。

蓮池城は『肥陽軍記』に「長江のめぐれるを城塁として」とあらわされているように、曲がりくねった佐賀特有の川の流れを利用して築かれた城で、別名小曲城とも呼ばれました。佐賀の古い航空写真などを見ると、その様子がよくわかります。

国土地理院、1981年の航空写真

河川の改修工事が行われる前、1981年の航空写真を見ると曲がりくねりながら流れていく川の様子がよくわかります。蓮池城跡はこの曲がりを利用した城、南側は田んぼになってますけど。

国土地理院、2008年航空写真

ちなみに現在は河川改修によって城跡は南北に分断されています。

城跡を歩く

蓮池城跡は現在蓮池公園として整備されていて、どれだけ城としての姿を留めているのかは不明です。

河川改修によって蓮池城を南北に分断した佐賀江川。曲がりくねっていた川が真っ直ぐ続く川へと改修されました。

まずは川の北側、ここは神社になっています。

この写真は私が訪れたときなので、4年前くらいになるでしょうか。かなりひどい状態の社殿、壁板がはがれていたり屋根がボロボロで、いまにも崩れそうな状態でした。

ちゃんと修復されたのか、また機会があれば行ってみようと思います。

ちょうど城の北端部分、道路が堀跡でしょうか。土塁がめぐらされていたと思われるのですが、いまはその痕跡を見る事は出来ません。

郭跡でしょうか、石積みが見えます。ただ、中世の城に石垣はほとんど使われませんので、おそらく江戸時代の陣屋だったころの遺構だと思われます。

島原の乱に出陣した際に持ち帰ったというマリア観音の石造仏。

中世のキリスト教徒、イエズス会の行いは酷かったようで、秀吉の右筆大村由己の手になる『九州御動座記』の次のような記述があるそうです。

日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。

iRONNAより

豊臣秀吉は全国で人身売買を禁じました。その秀吉がこの酷い様子を九州で目の当たりにし、宣教師を詰問したところ日本人が異教徒を売りに来るのだからしょうがないとはぐらかした。そのため秀吉が激怒してバテレン追放令を出したのです。ただ、秀吉のバテレン追放はキリスト教の信仰を禁止したわけでなく、一般庶民の信仰は自由、大名は許可制、外国人宣教師は追放という措置だったようです。

それを徳川幕府がさらに締め付けを強め、最後は禁教という対応を取りました。

長崎辺りでは世界遺産がどうのとかいいながら隠れキリシタンが弾圧された悲劇の主人公のように語っているけども、彼らは同朋をキリスト教徒に売り飛ばしていた非道な人たちなのだということも忘れてはならないのです。

キリスト教が世界でキリスト教徒以外の異教徒に何をしたのか、南米の文明を滅ぼし、黒人をキリストの利益になるということで奴隷とし、どれほどの人々を惨たらしく殺して来たのか。キリスト教徒が世界で引き起こした惨劇をわすれちゃダメだと思うし、糾弾すべきだと思うんですけどね。

蓮池城跡に話を戻し、中を歩くと中世の城だったころの面影っぽさも残っているように感じるんだけど、ほとんどが蓮池鍋島藩の陣屋として改築された後の遺構と思われます。

ただ各所にこのような水路が巡っていまして

佐賀江川を外堀とし、内部に水を引き込んで水路を張り巡らせ、佐賀特有の環濠平城としていたのかもしれませんね。

公園内の道と両側の盛り上がり、元は水路と土塁ということはないよな、やっぱ。

これも郭跡でしょうか、神社になってます。

これは外堀にあたる部分、佐賀江川の名残りですね。

城跡のなかには小さな小高い丘のようになった場所があり、ここは歩兵の訓練を見るための場所だったようです。

蓮池城の南側部分は練兵場として整備され、江戸時代末期にはヨーロッパ式の教練が行われ、この山の上から観閲したり指揮したりしたそうです。

頂上に上って練兵が行われていたという南側を見てみたのですが、公園内に植えられた植栽にさえぎられてみる事は出来ませんでした。

まあ、見えたところで、見渡す限りの田畑ですけど。

蓮池城落城悲話

蓮池城を居城とした肥前の小田氏は、鎌倉時代に九州に下り北部九州を支配した少弐氏に従う有力国人でした。一時は小田6千町と言われるほどの勢力となり、少弐と共に各地で戦い武功をあげます。しかし少弐氏が衰退し、龍造寺隆信を当主に迎えた龍造寺氏が急成長。結果、小田氏は龍造寺氏からの圧力に屈し、少弐を離れて龍造寺に従うようになります。

そして運命の少弐攻め、少弐氏の居城勢力福寺城を龍造寺隆信に従い攻撃。打って出た少弐勢と長者林で衝突、この戦いで先方を務めた当主小田政光は討ち死にしてしまいます。一説に小田正光の援軍要請を、本陣の龍造寺隆信が無視して見殺しにしたとも言われています。

まあ、その辺りは長者林の古戦場を見に行ってから書きましょうかね。で、この蓮池城、当主の討ち死にの直後、いきなり隆信に攻撃されて落城します。

小田正光は少弐氏に従い、龍造寺氏を滅亡寸前まで追い込む謀略と粛清に加担していました。龍造寺隆信の勢力があまりに大きくなったため最後は従属したのですが、隆信にとっては小田正光も一族の仇の一人だったのかもしれません。

結果として蓮池城は城後龍造寺氏の城となり、一門が城主を務めるなど佐賀の要地、重要な城の一つとされました。江戸時代になると蓮池鍋島藩の陣屋となって一国一城令をかいくぐって軍事拠点としての機能を維持、その後は公園として整備されて現在に至るのです。

よほど重要な場所だったのですね。

お城情報

蓮池城
築城年 1427年
城主 小田氏→龍造寺氏→鍋島氏

佐賀県佐賀市蓮池町 城内→Googleマップへ

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