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「水ケ江城跡」龍造寺隆信生誕の地、九州唯一の下克上による戦国大名

戦国末期の九州は大友、島津、龍造寺という3大勢力が争う三国志の時代でした。そんな中で島津や大友といった大名は鎌倉時代の守護大名が順当に戦国大名へ発展していったのに対し、龍造寺は地方の村長くらいの存在が成りあがった下克上大名なのです。

龍が居す地「水ケ江城」

龍造寺隆信が生まれた地、生誕地として知られる水ケ江城跡。現在残る佐賀城の南西方向、南堀のすぐ近くにある龍造寺分家水ケ江龍造寺の居城跡。築城年は1489年から1492年頃とされ、龍造寺14代当主である龍造寺康家が隠居所として館を構えたのが始まり。

この康家没後、5男の龍造寺家兼が館を回収して水ケ江城とし、分家水ケ江龍造寺を起こす。ちなみに、この家兼が後に入道して剛忠となり、隆信に水ケ江龍造寺を継がせる龍造寺躍進の原動力となるスーパー爺さんだ。

家兼の隠居館があったとされる東館に残る龍造寺隆信の碑。

その横には、龍造寺隆信生誕の地と刻まれた胞衣塚(えなづか)。胞衣とは胎盤のことを言うそうで、ここに隆信出産時の胎盤が埋められたと伝わっています。

ここは水ケ江城の東館、天神屋敷という建物が建っていましたた。

現在の佐賀、長崎、博多・福岡の大半、熊本の一部を勢力下に収めた大領主、史上最も有名な佐賀の英雄、戦に明け暮れ東へ西へ、大勢力の狭間で生き残りをかけ数々の修羅場をくぐり抜けて成長していく戦国九州最大のスペクタル巨編、龍造寺隆信による奇跡の物語りはすべてここから始まったのです。

水ケ江城跡

画像は佐賀市公式サイトより

水ケ江城の絵図というのは現存していて、佐賀県立博物館に所蔵されている。その絵図を元に佐賀市が作成した絵が市報さがに掲載された。絵図の写真も見たことがあるけれど、この佐賀市が作成した絵が非常に良く出来ていてとても見やすい。

この絵を見る限りでは、水ケ江城も佐賀の他の平城と同じように縦横に水路を巡らせ、浮島のようにある郭を繋ぐ環濠集落方式。私が環濠平城と及んでいるタイプの城だという事がよく分かる。今はこの中ノ館と東館が中ノ館町として一緒になっている。

中ノ館町の公民館の南側には光圓禅寺がある。ここは水ケ江龍造寺の重臣である木下伊予守の屋敷があり、そこへ寺を建てたという。

中ノ館へ至る郭に建てられた光圓禅寺、いまも同じ場所に建っています。

水ヶ江城の主郭、本館にあったとされる寺院「乾亨院」。龍造寺家兼が建立し、その弟によって開山された臨済宗南禅派の寺。

佐賀城本丸と南濠を隔てた……この地には、水ケ江城がありました。ここが水ケ江城の本丸、本館地区。そしてこの乾亨院には、佐賀で起こった士族の反乱「佐賀の乱」で殉職した日本政府軍兵士の墓があります。

乾亨院の官軍墓地、案内板に書かれている熊本鎮台第11大隊とは乱勃発時に佐賀城に駐屯していた部隊。佐賀士族による反乱軍の攻撃で、部隊の3割以上を失い敗走しました。

佐賀の乱はその後、反乱軍には全くいいところが無く、首謀者の一人である江藤某はケツまくって途中で逃げるし……で、政府軍に圧倒され続ける事になります。乱における政府軍犠牲者の大部分がこの最初の戦闘、佐賀城防衛戦で戦死した兵士。南無。

さらに、龍造寺滅亡の危機を迎えた時期がありまして、龍造寺一族の男子がことごとく討ち取られるという少弐とその家臣団による粛清ですね、その時の慰霊塔を家兼さんがこの寺に建てたとの事なのですが……どれか分かりません。

水ケ江城東館と中館の間にある水路、このような水路を水堀として利用するのが佐賀における平城のスタンダード。

濠をまたいで西館、中館と西館の郭の殆どの部分が小学校になっています。

西館から堀を挟んで南側にあった円蔵院、ここももちろん水ケ江城内。

円蔵院まえのクリーク、これも水ケ江城の堀跡でしょう、恐らく。この円蔵院の横には蔵屋敷が建っていたとされています。

水ケ江城内は佐賀市内中心部という事もあって、宅地造成されているところも多いんです。中にはこういう風景が残っている場所もありますが。

水ケ江城の南端と思われる辺り、ここまで来るとすっかり住宅街です。

水ケ江城の一番東にある郭に建っていた慶雲院、当時と同じ場所に建っているのでこういう寺を訪ねていくだけで水ケ江城の全容が見えてくる気がします。

龍造寺躍進の原動力となった水ケ江城

水ケ江城の堀跡

この城を整備した龍造寺家兼という武将が凄いのは、何と言っても経済というか金儲けを非常に重視していたんじゃないかと思えるような、そんな城の配置をしている事なんですよ。

水ケ江城の南東というか、ほとんど隣接しているといっても良いくらいの場所に八田という川港があったんですね。で、この八田というばしょは、佐賀で最も栄えていたと言っても過言じゃないくらい重要な川港でした。この八田という場所は江戸時代に入ると鍋島藩直轄地とされ、八田宿という町になり港町として大いに繁栄します。

本家が居城とした村中城は龍造寺村の中にある城、そして水ケ江城は龍の住処(水の家)を意味していて、龍造寺の家という意味を込めて名付けたそうです。北部九州をほぼ一代で制圧した稀代の英雄、熊とか言われてますけど、彼は龍だったのです。

お城情報

水ケ江城跡
築城年 1490年前後
城主 龍造寺氏

佐賀県佐賀市中の館町7−18(中ノ館自治会館)→Googleマップ

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