「八戸城跡」龍造寺隆信の義兄、姉が嫁いだ八戸氏の居城。佐賀市の戦国城(現龍雲寺)

なぜかウマの合わない奴ってのはいるもので、なにが嫌いとかどうとか言う訳ではないのだけれど。戦国時代に佐賀を支配した英雄、龍造寺隆信。その居城である村中城から1キロくらいしか離れていな場所に城を構え、さらに隆信の姉を娶った義兄でありながらも、最後まで敵対して隆信と戦い続けた戦士が居た。

八戸宗暘と八戸城

佐賀県佐賀市八戸にある八戸城跡、築城年は不明だけど佐賀市中心部からやや北へ行ったところにある於保の領主、於保氏から分かれてこの地に住み着いたと言われています。

そして戦国末期、龍造寺隆信が龍造寺宗家を掌握し、その支配を進めていた頃。この八戸城の城主は八戸宗暘(やえ むねてる)という人でした。

宗暘は龍造寺の姫を娶った一門、隆信の義兄にあたる武将でしたが、徹底して隆信に敵対します。

龍造寺隆信が水ケ江龍造寺家を継ぎ、次いで宗家である村中龍造寺の当主を継いで惣領となった際には土橋栄益らと共に隆信に謀反を企て、筑後へ追いやります。しかし、筑後から軍を率いて戻った隆信が佐賀を奪還、旧領を回復することに成功。隆信に背いた八戸宗暘ですが、八戸城は安堵され自らも許されます。そのかわりに、嫡男を人質にだすよう命じられたのですがこれを無視しました。

この人、とにかく隆信に従うのが嫌だったみたいですね。

この時代の領主というのは面子が大事、現代のヤクザ以上に舐められるわけにいかないのが武士の世界。命令無視など許せるはずもなく、隆信は激怒。さらに隆信と敵対していた神代勝利が佐賀山内へ戻って来たとの情報もあり、八戸宗暘が再び謀反するかもしれないと危惧した隆信は八戸城を攻めを決意。

弘治3年(1557年)の正月元旦、龍造寺軍は八戸城を奇襲します。この攻撃は完全な不意打ちとなり、戦の準備もできていない八戸宗暘は妻子を残し逃亡。その際、八戸城は廃城となりました。

佐賀市北部の山岳部を支配する神代勝利を頼って落ち伸びた宗暘は、その後も徹底して隆信と対立します。幾度か神代方として隆信と戦い、今山の合戦では大友方について隆信と戦い、最後は川上峡の戦いで深手を負って回復することなく合戦の4日後に亡くなりました。最後まで隆信に抗い続けた戦士、なぜそこまで義弟が憎かったのか。その理由は歴史の闇の中、誰にも分かりません。

川上峡の戦い→「川上峡の戦い古戦場跡」龍造寺隆信vs神代勝利による最終決戦

今山の戦い→「今山古戦場跡」龍造寺vs大友、決戦の地!!現地写真でゆかりの地なんかも紹介

八戸城跡を歩く

八戸城があるのは佐賀城の西、1キロほど離れた場所。龍造寺一族の城が集中する佐賀中心部にほど近い場所です。

八戸城は旧長崎街道から少し入ったところ、主郭部は龍雲寺というお寺になっています。

ちなみにここに残っている長崎街道は江戸時代の姿をそのまま残していて、のこぎり状にギザギザになっています。これは敵に先を見通せないようにすると同時に、このギザの部分に兵が隠れて敵を足止めするためだったと言われています。

長崎街道から寺へと向かう途中、目の前に大きな橋が見えてきました。

この橋は堀跡のクリークを渡るためのもの。

橋を渡ると主郭部だったと思われるお寺に到着します。佐賀の歴史・文化お宝帳というサイトによると、この八戸城の主郭部に建つ龍雲寺は、もともと慶聚寺という寺で大永元年(1521)に当時の八戸氏の当主八戸胤宗が城内に建立され、天文元年(1532)龍造寺氏が龍雲寺として再建したもの。

お寺の敷地はかなり広いですね。

本土の裏には田んぼもあります。

そして何よりも目を引くのが、寺を囲むようにめぐらされたクリーク。恐らく堀の跡でしょう。

三重の堀が巡らされていたという八戸城ですが、現在残っているのはこの大きな堀だけです。

高さ2メートル近い土の盛り上がり、おそらく土塁の跡だと思われます。このような土塁が周囲に巡らされていたのでしょう。

土塁の裏はこのような水路、堀跡ですね。堀と土塁はワンセット、おそらくここが一番らしい風景を残していると思います。ちょうど南西の角、墓地の裏の部分。

実際に現地を歩いてみると、この城も近くにあった飯盛城や水ケ江城のように水路を水堀として複数の郭を配置した構造だったと思われます。寺の部分以外は住宅地として分譲されていました。

住宅地部分に残る堀跡。

西から見た八戸城跡の全景。

国土地理院の航空写真で見た八戸城跡。こうやって見てみると、龍雲寺を中心にけっこうな広さがあったんじゃないかとも思える。実際の城域は不明。

八戸氏と葉隠れ

八戸城跡、龍雲寺には武士道と云ふは死ぬ事と見つけたりで有名な、葉隠を残した佐賀鍋島藩士・山本常朝の墓があります。

山本氏は八戸氏の末裔ということもあり、この寺を菩提寺としていたようです。墓地の中には山本氏の墓に関する案内板が設置されていました。

山本常朝の墓

お城情報

築城年不明
城主:八戸氏
1557年に龍造寺隆信の攻撃で落城、廃城となった。城跡には龍造寺家重により龍雲寺が建てられた。

住所:佐賀市八戸1丁目6-35(Googleマップへ)

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