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「今山古戦場跡」龍造寺vs大友、決戦の地!!現地写真でゆかりの地なんかも紹介

大友宗麟と龍造寺隆信が戦った村中城包囲戦、その中で龍造寺勢が大友を退ける切っ掛けとなった戦い「今山の戦い」の古戦場を紹介します。ついでに佐賀城から鍋島直茂の進軍ルートや、合戦所縁の地なんかも辿ってみたりしたので興味のある人はどうぞ。

今山古戦場跡に建つ今山合戦の慰霊碑

合戦の始まり

周防山口の大内氏が陶晴賢の謀反により滅亡、その後に台頭した毛利氏は大内氏の後をうけて九州北部の支配を巡って大友宗麟と争っていました。龍造寺隆信は主家であった少弐氏との因縁から大内氏に近い立場をとり、大内氏が滅びるとその後継ともいえる毛利氏に接近。大友氏との関係では敵対まではしなものの従うこともなく、バランスを取りながら地道に勢力を拡大していました。

しかしその事を面白く思わなかったのが大友宗麟、ちょっと懲らしめてやろうという気だったのかどうなのか、肥前の佐賀へと侵攻します。

一度目の侵攻は永禄12年(1569)3月のこと。肥前の国人はほとんど大友方につき、孤立状態になった龍造寺隆信。しかし大友から降伏するよう使者が来てもそれを拒否して徹底抗戦。小勢で奮戦します。

このときは毛利軍が博多防衛の要である立花山城に攻め寄せたため、大友宗麟は龍造寺隆信と和睦して立花山救援のために佐賀から撤退しました。

しかし5月に入り、毛利の大群が博多に集結している虚を突いて山中鹿之助らが旧領奪還のために挙兵すると、毛利軍は九州から撤退。旧尼子勢力と戦うため、出雲へ向かいました。毛利氏をうまく利用して立ちまわっていた龍造寺隆信は、有力な後ろ盾を失ったことにより窮地に陥ります。

そして元亀元年(1570)に大友宗麟が再び佐賀へと攻め込んできました。大友宗麟はキリシタンであり、この侵攻で進路上の神社仏閣ことごとく破壊しました。

今山奇襲戦

再び佐賀へと攻め込んだ大友宗麟は戸次鑑連(べっき あきつら、後の立花道雪)、臼杵鑑速(うすき あきすみ)、吉弘鑑理(よしひろ あきまさ、高橋紹運の父)に3万の兵を率いさせて佐賀へ侵攻、宗麟自身は現在の久留米市にある高良山に本陣を置きました。対する龍造寺隆信、従うのは一族と佐賀南部の国人のみ。総兵力は5千ほどだったそうです。

それでも龍造寺軍は3万対5千という圧倒的に不利な状況でありながら、局地戦で勝利を重ねます。

大軍で包囲しながらも攻めきれない大友軍、しびれを切らした宗麟は大友八郎親貞に三千の兵を与え、大将として佐賀へと送り出します。

一族を送り込んで督戦したということでしょうかね。

大友八郎が陣を敷いた赤坂山の遠景

敵の増援が到着し、しかも周辺の肥前の国人も大友に味方してしまっている状態。籠城して相手が疲弊するのを待つという手も使えなさそうだし、毛利は本州に引揚げたし、援軍のあてもなくまさに四面楚歌。そんな状況で取れる方法は一つ。

大将の首を獲るしかない

いわゆる乾坤一擲ってやつですよ、信長さんも桶狭間でそうしたし。

ということで、鍋島直茂君の発案で夜襲を書ける事が決定。元亀元年(1570)8月20日朝6時ごろ、前夜に酒宴を開いて緩み切っている敵兵に奇襲攻撃を敢行。突入したのは鍋島直茂率いる約800名、3000の兵が守る大友八郎の本陣へ切り込み、見事な大将討ち取り。結果、大友軍は総崩れ、大友本隊が撤退すればもちろん龍造寺のターン。龍造寺隆信は敵対勢力を各個撃破し、肥前東部の支配を固めていく事になったのです。

敵の大将を討ち取ったのは成松信勝、龍造寺四傑の一人。今山の合戦で使用した槍が現存していて、佐賀県立博物館が所蔵しているそうです。

いやあ、雨降って地固まるとはこの事。

しかし色々と調べようと本を手に取ると、鍋島直茂ってあらゆるところで超人的な活躍をするスーパーマンなんですよ。で、その元になってる記録は江戸時代中期(鍋島藩時代)に編纂されたもので、北肥戦誌とか言われているらしくて……忖度ですな、藩祖ですから。なので、鍋島直茂のスーパーマンぶりは、話半分くらいに見ておくのが吉です。

古戦場を歩く

今山古戦場跡には案内看板が立てられていて、戦いの概略を知ることが出来ます。

で、古戦場跡はというと、こんなに見事な果樹園になっています。

供養塔なんかも建てられていて、この場所は赤坂山展望台になってます。実際の本陣は供養塔の先に見える山の山頂あたりにあって、野戦築城の跡が今も残っています。入れないですけどね、フェンスがしてあって。

展望台からこんな道を更に上へ登っていくと、大友公園という公園があるはずなのですが……フェンスで塞がれていて入れません。

フェンスの先にはこのような供養塔があり

今山古戦場の碑と書かれた石碑があります。

本陣はさらにここから北へ続く尾根道を伝って山頂まで歩かねばなりません。そこには虎口や切岸、人工的に削平された曲輪群、竪堀などが残っているそうです。今はいけませんけどね、フェンスがあるので。

さすがに勝手に乗り越えるのは不味いかと思って……他人の畑になってますし。せめて頂上の本陣跡まで行けるようにしてもらえませんかね、佐賀市さん。

てかさ、この戦国ブームの中でなにやってんの? という話なんですけど(怒

戦国ブームなんてケッコウ短い周期で頻繁に来るんだから、しっかりやっとけば間違いないのよ、マジで。

ちなみに、本陣跡の画像はコチラのサイトにあります。ほんと立派な遺構が残ってるんですよ、見に行きてぇ~マジで。

肥前・今山陣所(城郭放浪記)

そう言えば、佐賀って北側に山が連なっていて、南側は遮るもののない広大な平野なんですよ。なので山に登って振り返るとほら、どうですかこの眺め。

見渡す限り、地平線の彼方まで平野が続いています。写真じゃアレですけど、すんごい大パノラマ。田畑のモザイク模様も綺麗で、すげえ……と言葉を失うほどの景色です。

鍋島勢(龍造寺軍)の進軍ルート

今山の合戦で、鍋島直茂が村中城を出陣して今山に至るまでのルートを歩いてみました。

村中城から出陣

佐賀城の北西部、現在の県庁周辺に村中城があった。

鍋島直茂、龍造寺氏の居城である村中城を17騎で出陣。

道祖元町で百武賢兼と合流

村中城を出て鍋島勢は西へ向かいます。

村中城の西にある与賀神社、楼門は室町時代に建てられた。出陣する鍋島勢を見送ったかもしれない。

夕方ごろ、村中城から西へ約500メートルの道祖元町にある道祖神社付近。ここで後を追ってきた百武賢兼と合流し50余騎、さらに鍋島の本領である本庄からの兵と合流。総勢100余騎となります。

今山へ奇襲攻撃に向かう鍋島勢が、後続の百武勢と合流した道祖神社。

道祖元町の道祖神社は与賀神社の参道に面して建っています。

与賀神社の参道を西方向へ

そのため、ひょっとしたらこの与賀神社の参道を鍋島直茂率いる一団が通ったかもしれませんね。

道祖神社に今山の合戦について書かれた案内があった。

周辺の土豪などが集まり続け、それらを糾合しながら鍋島勢は北上します。

江頭で村長が武装民を率いて合流

江頭という地名は今も残っています。

村中城を出た鍋島直茂は土豪などを集めながら北上し、江頭村に至ります。そこで江頭村の村長が30余騎の村民を率いて合流。ここまで来る途中で合流してきた者たちと合わせ、300騎を超えました。

江頭に残る環濠平城のような地形。

ここ江頭には佐賀の各所で見られる水堀を巡らせた、迷路のようになった環濠平城のような地形が残っています。この時代は武士と領民の区別がない時代、誰もが武器を取って戦うのが当然でしたからね。村長とはいえ国人領主のような存在で、領民はすなわち兵士でもあったのでしょう。

環濠平城の参考記事→「姉川城跡」肥前姉川氏の居城、少弐攻めで龍造寺隆信が本陣とした城

勝楽寺の竹で旗竿作り

勝楽寺も現存していました、鍋島軍の旗竿は全てここの竹で作られたそうです。

江頭から更に北、嘉瀬川のほとりにある勝楽寺。勝楽という言葉の縁起が良いと、鍋島氏が合戦に赴く際にはこの寺の竹を旗竿としたそうです。ちなみに、この辺りは鍋島という地名。肥前鍋島氏発祥の地と伝わる場所です。

いまはもう、竹は見当たりませんでしたが……

道路を渡って向いの田、その先に見えるのは……

ちょうど寺の前面を走る道路を渡った向かいにある田の先、そこに墓所と竹藪が見えました。昔はあそこも寺の境内だったのだとしたら……あの竹はひょっとしますか?

嘉瀬川を渡る

そして嘉瀬川を渡り、今山の西へ進出。小城郡から加勢に来た鴨打氏や持永氏の軍勢と合流。

男女神社の境内

男女神社の西から山へと入り、大友八郎本陣の裏手へ浸透。男女神社の松に掛けた鐘の音を合図に戦闘を開始しました。

今山の戦い、合戦詳報

今山に到着した鍋島勢は、男女神社西方から山に入った鍋島勢の本隊とし、於保方面から納富信景率いる隊を別動隊として二方向から赤坂山の大友本陣を目指します。

各隊が配置についたところで成松大善・柄永左馬允以下の精鋭7名が物見に出動。そこで金屏風を立て並べ、燭台に火を灯して満座に酒をすすめる大友八郎を発見する。なんと大友勢は翌日に村中へ総攻撃をかけることになっていたようで、戦勝前祝の酒宴を開いていたのです。

酒盛の主会場は本陣から南東へ一段下った場所にあるなだらかな丘陵地帯、酒盛塚と言われているらしいのですが、おそらく赤坂展望台の辺りと思われます。

夜が明けた元亀元年8月20日卯の刻(午前六時ころ)、男女神社に掛けられた鐘の音を合図に一斉攻撃。大友勢は完全に不意を衝かれ大混乱、同士討ちまで始まりました。成松信勝は手の者6人を召し連れ、大将首を追い見事討ち取ります。

すかさず「敵将討ち取ったり」と大声をあげた信勝、すると五、六人の武者がとびかかって来る。それを家臣がことごとく討ち果たし、大将討ち取りから半刻(約一時間)ほど抵抗を続けていた大友勢も総崩れとなりました。

その後は次々と龍造寺方の援軍が駆けつけ、戦線を拡大しつつ他の陣へ攻勢をかける鍋島直茂。赤坂山展望台の南東に広がる大願寺野で残る大友勢と激突、龍造寺と敵対した八戸、杠、名尾といった肥前国人を討ち取り、大友本隊の豊後勢の田原大隅守、吉弘大蔵大輔などを討ち取り、大友勢は2000名余を討ち取り敗走させました。龍造寺隆信も村中城を出陣し、前線に向かっている途中で勝利の報を聞くことになりました。

ちなみに、この戦で大将首をあげた成松信勝の槍と、手柄に対して隆信が出した感状は現存していて、佐賀県立博物館に所蔵されています。

今山古戦場周辺の見どころ

九州三国志の中でもメジャーな合戦、龍造寺隆信が地方の国人領主から大大名へと躍進するきっかけとなった大戦。

それがバトル・オブ・イマヤマ

周辺に残る今山の合戦ゆかりの地を訪ねてみました。

男女神社

今山の合戦で大きな役割を果たした男女神社、古戦場跡の西方にあるとても趣のある神社です。

今山の合戦と男女神社と書かれた文書が神社の前に掲示されていました。

内容は大友軍6万に対し、鍋島直茂(佐賀藩祖←ここ大事!)が7百の兵を率いて奇襲。敵の大将を討ち取った戦い。鍋島勢は男女神社の西側の谷を山伏の案内で登り、男女神社北東に掛けられた鐘の合図で攻撃を開始した。合図の鐘を掛けた松の木は昭和30年頃まで現存していた。

ザクっと読んでみると、このような事が書いてありました。

男女神社の西側、谷といえば谷か。今は見事な果樹園、ここを鍋島直茂率いる軍勢が登って行ったのです。

男女神社の社殿。今山の合戦で焼失し、後に初代佐賀藩主鍋島勝茂と小城鍋島藩主鍋島元茂の出資により再建されたという。

男女といえばもちろんコレ、昔のように子供たち喧しく走り回る町になるといいですね。

正勝寺

小城鍋島藩主、鍋島元茂により今山古戦場に建立されたと伝わる心宝山正勝寺。一説には大友八郎親貞が討ち取られた場所とも言われています。

本堂はこじんまりとした建物、寺というより民家に近い雰囲気です。

境内の石仏

説明もなにないので、まったくわからない石仏たち。

こちらは古そうなお墓。

山麓にひっそりと建つ小さなお寺、静かな場所でした。

佐賀県立博物館

佐賀市城内、佐嘉城本丸の近くに建つ佐賀県立博物館。

成松信勝の槍を所蔵しているということで行ってみたのですが、戦国期の展示はスカスカでした。こんなに戦国ドラマに満ち溢れた町なのに、あまり関心がないんでしょかね。

お腹空いた

こうやって地方の古戦場跡とかね、歴史スポットを訪ねたらお腹もすくわけで、どうせなら地元のグルメなんかを楽しんで記事にできたら最高とか思うんですけど……とりあえず今山近辺には飲食店も見当たらず。佐賀市街地に入って来たんだけど、なんというか佐賀ならではてきなお店を見つけられなくて。

結局、佐賀大和のマクドナルドでダブチを食べて帰りました。

なんていうんだろ、自動車で移動しながらどこかお店に入ろうと思ってたんだけれども、佐賀らしいご当地グルメ的なお店を見つけきれなくて……寂しいランチになってしまいました、残念無念。

この記事で言った場所一覧

今山古戦場の碑(古戦場跡)→Googleマップへ

道祖神社(道祖元町)→Googleマップへ

江頭公民館(鍋島町八戸溝)→Googleマップへ

勝楽寺(鍋島町森田)→Googleマップへ

男女神社(大和町久留間)→Googleマップへ

正勝寺(大和町久留間)→Googleマップへ

佐賀県立博物館→Googleマップへ

男女神社と正勝寺、そして今山古戦場はGoogleマップのナビを使うととんでもないルートを案内されることがあるので注意。軽でも怖いくらい狭い道を案内されてビビりました。

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