「小田部城(月城)跡」福岡市早良区にあった戦国時代の城

旧石器時代から早良郡の中心地として栄えていたと思われる地、福岡市早良区にある有田台地。ここに筑前国早良郡、現在の福岡市早良区で大きな勢力を誇った小田部氏の城館「小田部城」がありました。

城館跡の区域内と思われる場所にある荒平山西應寺

築城年不詳、誰によって築かれたかもわからない城なのですが、天正年間には安楽平山城主である小田部氏の里城がこの地にあったと伝わっています。この場所は旧石器時代の環濠集落の遺跡群の中に位置していて、早良郡を治めていた古代の役所跡と思われる遺構も見つかっています。

有田遺跡の案内板

ここ有田台地は古代より現在の福岡市早良区と西区の一部に広がる筑前国の早良郡を治める中心地であったと思われるので、その関係からこの地を領する国人領主の城館も建てられたのだろうと思われます。

この小田部城がある場所には永世3年(1506)頃に大内氏に従う国人領主の庄崎氏が館を構えていました。しかし大内氏が滅亡し、大友氏が筑前に進出すると大友氏に従う小田部氏の支配となり、庄崎氏は小田部氏の家臣団に組み込まれていったのではないかと推測されています。

小田部氏がこの地を支配したのは1550年代半ばころから天正7年(1579)、肥前佐賀との県境付近に位置する小田部氏の居城である安楽平山城が落城までの間。

大友氏の衰退とともに龍造寺隆信がこの地に侵攻し、城主であった小田部鎮元は自刃、嫡子九郎も戦死。筑前の国人領主である小田部氏は滅亡します。しかし、父を兄を失いながらも最後まで龍造寺隆信と対峙していた小田部鎮元の次男である小田部統房が落ち伸び、立花宗茂の妹である於千代を室に迎えて柳川藩に仕えました。

小田部城の南端部と思われる宝満宮、周辺より一段高い高地になっている。

城域は東西110メートル、南北140メートルの方形と推測されていて、現在の早良区有田2丁目にある宝満宮から西應寺までの範囲がそれ。

小田部城跡と推定される土地に立つ宝満宮、この周辺の発掘調査では戦国期である十六世紀代の遺物が大量に発見されています。

龍造寺隆信による筑前侵攻で滅ぼされた小田部氏、この地は豊臣秀吉による九州征伐まで村の鍛冶屋から成り上がった曲渕城主である曲渕河内守が領することになったそうです。

小田部城がその後どうなったのか、記録がほとんど残っていないためによく分かっていません。おそらく安楽平城落城の後に廃城になったと思われます。

小田部城跡→Googleマップへ

関連記事

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA